もう二度と入ることはないと思っていた、東城院の家。
私が使っていたのは、一階のいちばん北側の部屋だった。
引き取られてから、二階には決して上がるなと鴇子に言われ、掃除でも踏み入ったことはない。
その二階へ、今、千景に手を引かれて上がっていく。
廊下の板の感触さえ、どこか現実味がない。
部屋へ招き入れられ、千景が襖を閉めると、ぱたん、と小さな音がやけに大きく響いた。
五年間、一度も入らなかった千景の部屋。
見慣れないはずなのに、部屋中に千景の気配が満ちている。
ゆっくりと向けられた目線と、伸ばされた腕に、次の瞬間には抱き寄せられていた。
「弥生っ」
「ちか……んっ」
切実で、切ないような声のあと、千景の唇が重なる。
抱き締める腕の強さも、頬に触れる手も、全部。
全部ずっと欲しかったものだと、唇が触れた瞬間にはっきりわかった。
力が抜けるような感覚に足元が浮つき、そのまま倒れ込む。
抱き留める千景の腕は少しも緩まない。
むしろ、離すものかというみたいに、いっそう強く抱き締められる。
それが苦しいはずなのに、苦しいより先に、ようやくここへ帰ってこられたのだと胸が熱くなった。
「はっ……ちか、げさんっ……!」
息が続かなくなり、立ち膝になるようにして離れて、やっと大きく息を吸う。
見下ろすと、千景の顔はすぐ近くにあった。
首筋にはまだわずかに白粉が残り、唇の端には紅の色も見える。
板の上の名残をまだ残したままの顔が、返ってどうしようもなく色っぽく見えてしまって、思わず目を逸らす。
「……すまない。やっと触れられると思ったら」
そう言いながら、額を私の胸元に寄せてくる。
「ああでもしないと、また弥生がどこかに行ってしまいそうで、急いてしまった」
「だからって……こない……何の相談もせんと……」
「またお前を手放すのだけは、もう耐えられなかった」
「でもっ……全部、急すぎます」
その一言に、胸がきゅうと縮む。
舞台の上では誰よりも美しく、辛い稽古にも耐える人が。
普段はあれほど堂々としている人が、私と離れることをこんなにも恐れるなんて、誰が想像できるだろう。
その恐れを、今こうして隠しもせずぶつけてくれることが、たまらなく嬉しい。
「うちはもう、どこにも行きまへん」
胸元に寄せられた千景の頭を、そっと抱きしめる。
「弥生、おいで」
私が使っていたのは、一階のいちばん北側の部屋だった。
引き取られてから、二階には決して上がるなと鴇子に言われ、掃除でも踏み入ったことはない。
その二階へ、今、千景に手を引かれて上がっていく。
廊下の板の感触さえ、どこか現実味がない。
部屋へ招き入れられ、千景が襖を閉めると、ぱたん、と小さな音がやけに大きく響いた。
五年間、一度も入らなかった千景の部屋。
見慣れないはずなのに、部屋中に千景の気配が満ちている。
ゆっくりと向けられた目線と、伸ばされた腕に、次の瞬間には抱き寄せられていた。
「弥生っ」
「ちか……んっ」
切実で、切ないような声のあと、千景の唇が重なる。
抱き締める腕の強さも、頬に触れる手も、全部。
全部ずっと欲しかったものだと、唇が触れた瞬間にはっきりわかった。
力が抜けるような感覚に足元が浮つき、そのまま倒れ込む。
抱き留める千景の腕は少しも緩まない。
むしろ、離すものかというみたいに、いっそう強く抱き締められる。
それが苦しいはずなのに、苦しいより先に、ようやくここへ帰ってこられたのだと胸が熱くなった。
「はっ……ちか、げさんっ……!」
息が続かなくなり、立ち膝になるようにして離れて、やっと大きく息を吸う。
見下ろすと、千景の顔はすぐ近くにあった。
首筋にはまだわずかに白粉が残り、唇の端には紅の色も見える。
板の上の名残をまだ残したままの顔が、返ってどうしようもなく色っぽく見えてしまって、思わず目を逸らす。
「……すまない。やっと触れられると思ったら」
そう言いながら、額を私の胸元に寄せてくる。
「ああでもしないと、また弥生がどこかに行ってしまいそうで、急いてしまった」
「だからって……こない……何の相談もせんと……」
「またお前を手放すのだけは、もう耐えられなかった」
「でもっ……全部、急すぎます」
その一言に、胸がきゅうと縮む。
舞台の上では誰よりも美しく、辛い稽古にも耐える人が。
普段はあれほど堂々としている人が、私と離れることをこんなにも恐れるなんて、誰が想像できるだろう。
その恐れを、今こうして隠しもせずぶつけてくれることが、たまらなく嬉しい。
「うちはもう、どこにも行きまへん」
胸元に寄せられた千景の頭を、そっと抱きしめる。
「弥生、おいで」



