梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

初めて訪れた飛行場。
車を降りた途端、まるで嵐みたいな風が吹き抜け、髪が大きく煽られる。
ごう、と唸る音に思わず耳を塞ぎ、空を見上げた。

何度も飛んでいるのを見たことはある。
けれど、本当にこんな大きなものが、あの広い空を飛ぶのだろうか。
そして、自分がこれからこれに乗って、海を渡るだなんて。

これに乗ってしまったら、もう引き返せない。
今まで経験したことのない速さで、あの人から離れていくのだろう。
そう思うだけで、足元が少しふわつく気がして、胸の奥が、ひやりと冷えた。

「チェックインまで、もう少し時間があります。何か飲み物を買ってきましょうか」
「あ……じゃぁ、お願いします」

離れていく嘉月の背中を見送りながら、風に煽られる袴の裾を押さえた。

きっと、海を越えて。
距離が離れて。
会うこともなくなったら、忘れられる。

千景と一緒に過ごした日々のことも。
こうして今でも胸を痛める、甘く、苦いこの気持ちも。
そうやって少しずつ、昔のことになるのだと。
そう思わなければ、ここへ来た意味がなくなる気がした。

「でも……忘れたくあらへんな……」

声に出した途端、背中に強い力が回る。

息を呑む。
ほんのり香る白粉の匂いが、やけに懐かしかった。
この香りだけで、胸が高鳴って、目の奥が熱くなる。
たったそれだけで、この胸が誰を待っていたのか思い知らされる。

「よかった……っ、間に合った」
「……ち、かげさん……?」

たくさんの人が行き交うざわめきが、急に遠くなる。

焦がれて、焦がれて、会いたくて仕方なかった人の、息を切らせた吐息が耳元に落ちる。
自分の心臓の音なのか、背中越しに伝わるこの人の鼓動なのか、もうどちらかもわからない。
ただ、抱き締められているということだけが、あまりにもはっきりしていた。

「すまない。見送るつもりだった……その方が弥生の幸せだと、わかっているのに……」

震える手で、千景の腕に触れる。
じわりと汗の滲む腕。
きっと千穐楽のあとの片付けもそこそこに、ここまで急いできてくれたのだ。
私のために。
その事実だけで、胸がどうしようもなくいっぱいになる。

ようやく腕が緩む。
離れたくないと思う気持ちと、離れた瞬間の心もとなさが一緒に押し寄せてきた。
向かい合って見上げると、その瞳の中には私だけが映っている。

最後に『葛の葉』を観たあの日から、思い出さない日はなかった。
何度となく、劇場に向かいたい衝動にかられたことか。
でも……会ってしまったら、離れられるわけがない。
口にしたら……今度こそ止まらなくなる。

「千之助さん?」

嘉月に声をかけられて、我に返った。
千景の手を取り返すみたいに触れている自分に気づく。

あんなに、不釣り合いだと。
住む世界が違うと。
胸の奥底で何度も何度も繰り返したのに。

「あぁ、見送りに来てくれたんですね」

喉の奥が乾く。
今ならまだ、間に合う。
「お見送り、ありがとうございます」それだけを言えばいいだけなのに、喉が閉まったように声が出ない。
添えた指を離すことすらできなくなる。

「見送りではありません」