梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

弥生が来た初日のあとも、公演は続いた。
何度も経験してきたことだ。

幕が上がれば芝居をし、幕が下りれば次の日に備える。
そうして何も変わらないまま、千穐楽を迎える。

いつもと変わらない。
人の気配も、足音も、衣擦れの音も。
弥生が東城院に引き取られる前から、ずっと続いてきた生活。
そして、これから先も、俺の人生はきっとこれを繰り返していく。

『さようなら、千景さん』

もうあれから何日も経ったのに。
それなのに耳の奥には、あの日、聞いた弥生の声だけがまだ残っている。

『兄さん』ではなかった。

あれは、弥生が初めて俺を兄ではなく、一人の男として呼んだ声。
俺が名前で呼んでほしいと言い、弥生はその通りにしただけのこと。
そう考えれば、それだけのことのはずなのに。
あの呼び方は、そのまま別れの言葉になった。

あの時、花束を受け取った手が、まだかすかに冷たい気がする。
『葛の葉』の拵えのままで、何を言えばよかったのかと何度も考えた。
どれだけ思い返しても、出てくるのは同じ言葉ばかり。

『その方が、弥生の幸せだ』

口にしたのは自分だ。
嘘偽りなく、本心からそう思った。
嘉月の家なら、使用人のように扱われることもない。

誰かの機嫌をうかがって息を潜める必要もない。
京の言葉を責められることもないだろう。
学ぶことだってできる。
東城院にいた五年で奪われたものを、少しずつ取り戻していけるかもしれない。

だから、送り出すべきだ。
そう思ったはずなのに。
それでいいのだと、自分に何度も言い聞かせてきたはずなのに、胸のどこかではまだ、それで終わりにしたくないと足掻いている。

「千之助様、こちらへ」

外から声がかかり、ようやく顔を上げた。
楽屋挨拶が残っている。

千穐楽。
後援会も、役者仲間も、このあとの夜の公演に出る父もいる。
今さら一人の男の顔で立ち尽くしてはいられない。

「……ああ。今行く」

返した声は、自分でも驚くほど平静だった。

襖を開ける。
廊下はいつもより明るく、人も多い。
祝辞を述べる者、花束を運ぶ者、笑い声。
どれもこれも、さっきまで自分が立っていた舞台の延長みたいだった。

東條千之助として歩く。
頭を下げる。
礼を言う。
次の興行の話に頷く。

ひとつひとつ、何も間違ってはいないはずなのに、心だけが妙に空虚だった。
ちゃんと受け答えをしている。
笑うべきところでは笑ってもいる。
それでも、中身だけどこかへ抜け落ちたみたいだった。
役者として立っているのに、心だけがまだあの日の楽屋に置き去りのまま。

「千之助さん、『葛の葉』は見事でしたな」
「ありがとうございます」
「いやぁ、千宗殿も鼻が高いでしょうなぁ」

笑って答える。
だが相手の顔を見ているはずなのに、脳裏には別のものしか浮かばない。

新しい袴姿の弥生。
少しだけ大人びて見えた横顔。
渡航するんです、と言った時の、無理に整えた声。
そして最後の、あの呼び方。

『さようなら、千景さん』

誰かがまた何か話しかけてくる。
だが内容が頭に入ってこない。
まるで舞台の上で、肝心の文句だけが飛んだみたいだった。

「千之助」

低い声で名を呼ばれ、はっとした。
いつの間にか、父がすぐ目の前に立っている。

「父上」
「気が散っている」

反射的に「そんなことは」と言いかけ、やめた。
父の目は、そういう誤魔化しを通さない時の目だ。

「……千穐楽なので。少し、疲れただけです」
「そうか」

それ以上追及されない。
けれど、ほんのわずかに視線を横へ流した。劇場の出口の方へ。

「弥生は、もう飛行場へ向かうころか」
「……ご存じだったんですか」
「昨晩、嘉月から連絡がきた。弥生が世話になったと」

弥生はもう、東城院の外へ出ていった。
嘉月の娘として、新しい場所へ向かい、新天地で幸せになる。
頭ではわかっていたはずなのに、父の口からそれを確かめられた瞬間、ようやく現実になった気がした。

「弥生は、きっと幸せになります。幸せにならないと」

俺の手で幸せにできたなら。
そんなことを願った日も、確かにあった。
だがもう、それは俺が願っていい形では残っていない。

だからせめて、どうか。
願わくば彼女のこの先の人生が、明るく、穏やかで、誰にも怯えずに笑えるものであってほしい。
それだけが、今の俺に残された願い。
俺の知らない場所でも、俺の届かない時間の中でも。
そう思うしかなかった。