梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

「渡航するんです。嘉月さんの、お仕事の関係で」

千景の表情が、ぴたりと止まる。

「……いつ」
「もうすぐです。来月には」
「そうか……どれくらいの間?」
「三年ほどと聞いてます」
「……三年」

短い返事に、それだけで胸が痛む。
もっと何か言ってほしいと思ってしまう自分が、情けなかった。

「向こうで、学校も通わせてもらうんです。女の人の勉強にも寛容な土地だそうで、うちのためになると」
「……そうか」
「はい。だから」

だから、なんだろう。
学校にいい思い出があったわけでも、勉強が好きだったわけでもないのに。
行けばきっと、私のためになる。
それは頭ではわかる。
けれど、その先に千景がいないことだけが、どうしても苦しい。

言葉の先が喉につかえた。

本当は、行きたくない。
三年、ひょっとしたらもっと長く会えない。
その間に千景はもっと遠くへ行ってしまう。
自分などのこと、思い出さなくなるかもしれない。
歌舞伎の御曹司として、名跡と家を背負って、私の知らない場所で、私の知らない人たちに囲まれて、生きていくのだろう。

でも、そんなことは言えない。

千景は口を開くこともなく、しばらく黙っていた。
まだ『葛の葉』の名残を残すその顔が、少しずついつもの千景の顔へ戻っていく。
その変化を見ていると、どうしてか余計に苦しくなる。
役の中の悲しみが抜けていくほど、今ここにいる千景の言葉だけが、本当になっていく気がして。

「嘉月さんは信用に足る人だ」
「はい」
「本当の父親といた方が、お前のためなんだろう」
「……」
「身なりも整えてもらっている。学校へも行ける。その方が、弥生の幸せだ」

そこで千景は一度だけ目を伏せた。
私にではなく、自分にも、そう言い聞かせるみたいな声。

笑おうとした。
ちゃんと笑って、『はい』と返さなければいけないのに、口元がうまく動かない。
『梨園の娘』だった時は、あんなに息を吐くように、口にできていた言葉なのに。

「……はい」

ようやくそれだけ絞り出す。
千景は、少しだけ唇を引き結んだあと、いつもと変わらない声色で言った。

「がんばれ。お前なら大丈夫だ」

その一言で、もうだめだった。
ああ、この人は本当に私の幸せを思って、送り出そうとしているのだ。
引き止めないでいてくれることが、優しさなのだとわかってしまうから、余計につらい。
もしここで、行くなと一言でも言ってくれたら、私はたぶん何もかも捨ててしまう。
だからこそ、この人は言わないのだ。

袖に隠すように、指先を握りしめた。
声が震えそうになるのを、必死で堪える。

「おおきに。今日、来れて、ちゃんと話せてよかったです」
「弥生」
「『葛の葉』、忘れません」

千景が何か言いかける。
けれど、それを待たなかった。
待ってしまったら、きっともう行けなくなる気がして、一歩だけ下がって、深く頭を下げる。

「さようなら、千景さん」

初めてそう呼んだ。
兄さん、ではなく。
千景さん、と。

それは、兄妹ではない男を呼ぶための名前。
同時に、もう簡単には呼べなくなる名前でもあった。
口にした瞬間、胸の奥で何かが切れたような気がした。

千景が息を呑む気配がした。
けれど顔を上げない。
顔を見たら、きっと泣いてしまう。

「……ああ」

返ってきたのは、それだけだった。
その短い返事を胸にしまって、くるりと踵を返す。

楽屋を出る寸前、背中にまだ視線を感じた。
追いかけてはこない。
呼び止めも、しない。

それが千景の答え。
送り出すことを選んだ人の、痛いほどの優しさ。
優しいのに、どうしようもなく残酷だ。

劇場の外へ出た瞬間、ようやく小さく息を吐く。

胸の奥が、からっぽだった。
けれど、そのからっぽの中に、今しがた舞台の上で見た『葛の葉』の背中が、静かに残っていた。
去ると決めた女の背中。
それでも、置いていくものを思わずにはいられない女の背中。

まるで、これからの私みたいに。