梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

数日後。
嘉月に用意してもらった袴を着て、劇場の桟敷席に座っていた。
いつもは裏方として走り回り、観られても舞台袖からだけだったのに、今日は一番いい席から舞台を観ている。

桟敷席から観る舞台は、舞台袖から観る景色より、ずっと遠くて、ずっと美しい。
こうやって観ることで、こんなにも息を呑むほど、美しかったのだと実感させられる。
客席の空気ごと抱き込み、明かりも義太夫の声も、役者の吐く息さえひとつの絵のように見えてしまう。

久しぶりに見る、千之助の女方。

ただ形が美しいのではない。
視線を落とす一瞬も、袖を返す角度も、そこに生きている女の心ごと見せてしまう。
今日の『葛の葉』は、なおさらだった。

去ると決めた女。
それでも、残していくものを思わずにはいられない女。

夫と子を残し、自分は去る。
舞台の上の『葛の葉』が振り返らないたび、胸の奥をきつく締めつけられるようだった。
振り返りたいのに振り返れない。
残したいのに残せない。
その躊躇いが、足の運びにも、指先にも、声にならない息の置き方にまで滲んでいて、見ているこちらの方が耐えられなくなる。

母も、こんな気持ちだったのだろうか。
好きな人の前から、自分から身を引くしかなかった時。
本当はどれほど泣きたかったのか。
何を捨てて、何を守ろうとしたのか。

そして、自分もまた母と同じなのだと、認めるしかなかった。

舞台が終わる。
しばらく遅れて、客席から大きな拍手が湧き上がった。
その波のような音に包まれながら、膝の上の花束を強く抱きしめる。

これを渡したら、本当に最後になるのかもしれない。
そう思うだけで、指先が少し冷たくなる。
けれど、行かなければならない。
今日、来ると約束したのだから。

楽屋へ通されると、そこにはまだ『葛の葉』の余韻をまとった千景がいた。

鬘も白塗りも、目張りもそのままに。
舞台で見た、美しい『葛の葉』なはずなのに、私を見た瞬間に、千景の目がやわらかくほどける。
その変化がわかる自分が、また少し苦しかった。

「……来たか」
「初日、おめでとうございます」

花束を差し出す。
千景はそれを受け取ると、ほんの少しだけ目を細めた。

「『葛の葉』、とてもようございました」
「そうか。来てくれると、思っていた」
「約束しましたやろ」

そう返したものの、声が少し震えた気がして、すぐに視線を落とす。

ほんの少し前、何度もここに立ち入り、手伝いをしていたのに。
化粧道具が並び、衣裳の匂いと花の香りが混ざっている。
けれど今は、そのどれよりも目の前の人の気配だけが強かった。
舞台の熱がまだこの部屋に残っていて、その熱ごと千景が立っているように見える。

千景が花束を脇に置く。

「毎日同じ家にいたのに」
「……え?」
「まるで、何年も会えなかったみたいだ。実際は、一月も経っていないのにな」
「そないなこと」

いつものように誤魔化そうとして、やめた。
今日は最後なのだ。
最後くらい、ちゃんと言わなければいけない。
このまま何も言わずに出ていったら、きっとずっと後悔する。

そっと息を吸った。