梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

「ここでの暮らしには慣れましたか?」
「えっ!?あ、はい」

十七年間、こんな暮らしをしたことはないのに、慣れるなんてこと、本当にあるのだろうか。

京都でも東城院の家でも、ずっと子守歌代わりのように聞いていた三味線の音もしない。
時折、外から波の音や、船の汽笛の音が聞こえるだけの静かな邸。

とくにここ五年間は、朝から晩まで家の手伝いに追われるような毎日だったのに。
それなのに今では、使用人たちに『お嬢様』と呼ばれている。
家のことをして、千景の稽古を見て、劇場の手伝いをして。
そうして一日が終わっていった。

それらがなくなった今、私はどうやって時間を過ごせばいいのだろう。
時折、海の近くの公園に散歩したりするくらい、平穏と言う言葉の通りの毎日。
贅沢な悩みだとわかっていても、ありがたさより戸惑いの方が勝ってしまう。

「あの、今度……歌舞伎を観に行きたいのですが」

ずっと、聞くタイミングを計っていて、聞けずにいた『葛の葉』の公演……

「いいですよ。切符を手配しましょう。桟敷席でいいですか?」
「桟敷席!?そ、そんな高価な席……!?」

私の慌てた反応を見て、嘉月が苦笑する。

「千之助さんの舞台でしょう。一番いい席で見た方がいい。持っていく花も用意しますよ」

その言葉に、いつだったかの瑠璃子の姿を思い出した。
誇らしげに花を抱え、まっすぐ千景の前へ立っていた姿。

あんなふうに、正面から千景に会えるのだろうか。
着古した袴ではなく、新しく用意してもらった袴を着て、千景の前に立つ。
その時、千景はどんな顔をするのだろう。

「すみません、ありがとうございます」

きっと、彼なりの母に対する、そして私に対する、この十七年間の贖罪なのだろう。
すぐに親子のようにはなれなくても。
少しずつ、変わっていけたらいい。
そう思えた……

「きっと、千之助さんに会えるのは、それが最後になるかもしれませんし。お別れも必要でしょう」
「……え?お別れ……?」
「来月、再渡航が決まりました。弥生さん、あなたも連れていきます」

再渡航。
連れていく。

あまりに突然で、言葉が頭の中にうまく落ちてこない。
来月。
海を渡る。
私も。

「今回は三年ほど、ひょっとしたらもう少し長くなるかもしれない」
「東城院では学校を中退されたと聞きました。向こうでの学校も手配します」
「言葉など、慣れないことも多いかもしれませんが」
「向こうは女性の勉学にも寛容です。きっと弥生さんのためになります」

嘉月の言葉が、目の前をすり抜けていく。
何ひとつ、ちゃんと頭に入ってこない。

「弥生さん?」
「あ、はいっ!あの、すみません……」

家が離れても、会おうと思えばいつでも会える。
どこかで、そんなふうに思っていた。
嘉月の家に移っても、劇場へ行けば会える。
次の舞台だって観に行ける。
約束だってある。

けれど、海を渡ってしまったら……?

「少し、部屋で休みます……」

部屋に戻り、ベッドへ倒れ込む。
柔らかな寝具が身体を受け止めるのに、胸の奥だけがひどく落ち着かない。

三年。
三年経ったら、私は二十歳になってしまう。
千景はその頃には二十二歳。

彼は歌舞伎の御曹司。
しかも東で一番大きな宗家の跡取り。
名跡と家の先を背負う立場の人に、とてもじゃないけれど待っていてほしいなんて言えるわけがない。

いや、待ってもらうなんて考えること自体がおかしい。
自分とは住む世界が違う。
そんなことは最初からわかっていたはずなのに。

『御曹司であるお兄様との未来など、夢見ないことね』

薫子に言われていたのに。
私は、夢を見てしまっていたのだ。

『弥生が好きだ』

千景のあの言葉に。
想いが通じ合い、兄妹ではなかったのだと知った事実に。
千景と二人で生きる未来を——そんなものまで、胸のどこかで信じかけていた。

瞼を閉じると、千景の顔が浮かぶ。
次の舞台を観に来いと言った声。
たった一回、抱き締められた腕の強さ。
手に残っている気がするぬくもり。
それらが全部、急に遠くなる。

「いやや……」

口から零れた瞬間、自分でも驚くほどはっきり涙が滲んだ。

たった三年、なのかもしれない。
けれど、その三年で千景の周りが何も変わらないはずがない。
私の知らないところで、千景はもっと遠い人になってしまうだろう。

いや、遠くなるだけならまだしも、他の人のことを……また瑠璃子のような存在が現れるかもしれない。

そう思ったら、胸の奥が、静かに壊れる音がした。