千景が私に声をかけてくれるのは、たいてい稽古の前後のこと。
私が廊下や稽古場を拭いているとき。
誰もいないと思っていたところへ、ふいに声が落ちてくる。
「顔色が悪い。眠れているか」
「眠れてます」
「嘘だな。目の下に隈がある」
千景はまっすぐ私の顔を見て言った。
誤魔化せると思ったのに、その目の前ではうまくいかない。
「……少し、夜中に目ぇ覚ますことがあって」
「そうか」
それだけ返して、千景は少し考えるように黙った。
叱られるのかと思ったけれど、そうではなかった。
「ここは、花街とはまるで違うだろう」
「……はい」
「いずれ慣れる」
「兄さんは、どうやって慣れはったんですか」
口にしてから、余計なことを聞いたと思った。
千景は御曹司で、私は突然入り込んだ娘だ。育ちも立場も違いすぎる。
でも千景は気分を害した様子もなく、少しだけ視線をずらしてから言った。
「気がついたら稽古をしていた。慣れるも何もない」
「……」
「何かに集中しているときは、他のことを考えなくて済む」
静かな声だった。
けれど、その言い方には言い慣れた重みがあった。
稽古が日常で、息をするみたいに体に染みついている人の言葉。
「……そうですね」
「お前は、何か好きなことはあるのか」
好きなこと。
そう聞かれて、すぐには答えられなかった。
母の歌を聴くのが好きだった。
三味線にのせて流れる声を、夜の座敷の隅でじっと聴いているのが好きだった。
でも、それはもうできない。
しばらく黙ってから、私は小さく答える。
「音を聴くんが、好きです」
「音?」
「はい。三味線とか、笛とか。耳で聴いて、頭の中でなぞるのが好きで」
千景が、わずかに眉を上げた。
「なぞる?」
「……再現する、いうんでしょうか。同じように辿るんです。ここで音が跳ねた、とか、今ちょっと遅れた、とか」
「三味線が弾けるのか」
「芸妓が扱う楽器は、だいたい一通り。母が、耳のええ子やって言うてました」
そこで初めて、千景の目に少しだけ興味の色が差した気がした。
「それは稽古で使える」
「稽古、ですか」
「歌舞伎の。見取り稽古と言って、見て覚える稽古がある。所作だけじゃない。調子や間も、分かれば強い」
千景は静かに言う。
けれど、歌舞伎の話になると、言葉の奥に熱が混じる。
相変わらず淡々としているのに、その淡々さの下で、何かが確かに燃えているように。
「兄さんは、歌舞伎が好きなんですね」
「好きか嫌いか、そういう話ではないけれど」
千景は少し考えてから、続けた。
「御曹司だからやっている。だが、恐らく嫌いではない」
恐らく嫌いではない。
その言い方が、ひどく千景らしいと思った。
好きと言ってしまうには照れがあるのか、それとも、そういう言葉をあまり持たずに育ってきたのか。
どこか含みを残す言い方が、歌舞伎そのものに似ている気がした。
「うちも、嫌いやないです。歌舞伎のことが」
「そうか」
千景が少しだけ目を細める。
ほんのわずかだったのに、それだけで空気がやわらいだ気がした。
「機会があれば、劇場にも来るといい」
「……よろしいんですか」
「だめなら言わない」
あまりにあっさりしていて、思わず少しだけ笑いそうになる。
もちろん、本当に叶うかどうかはわからない。
軽い一言だったのかもしれない。
それでも、その言葉は胸の中に残った。
この屋敷に来てから初めて、先のことが少しだけ楽しみに思えた。
私が廊下や稽古場を拭いているとき。
誰もいないと思っていたところへ、ふいに声が落ちてくる。
「顔色が悪い。眠れているか」
「眠れてます」
「嘘だな。目の下に隈がある」
千景はまっすぐ私の顔を見て言った。
誤魔化せると思ったのに、その目の前ではうまくいかない。
「……少し、夜中に目ぇ覚ますことがあって」
「そうか」
それだけ返して、千景は少し考えるように黙った。
叱られるのかと思ったけれど、そうではなかった。
「ここは、花街とはまるで違うだろう」
「……はい」
「いずれ慣れる」
「兄さんは、どうやって慣れはったんですか」
口にしてから、余計なことを聞いたと思った。
千景は御曹司で、私は突然入り込んだ娘だ。育ちも立場も違いすぎる。
でも千景は気分を害した様子もなく、少しだけ視線をずらしてから言った。
「気がついたら稽古をしていた。慣れるも何もない」
「……」
「何かに集中しているときは、他のことを考えなくて済む」
静かな声だった。
けれど、その言い方には言い慣れた重みがあった。
稽古が日常で、息をするみたいに体に染みついている人の言葉。
「……そうですね」
「お前は、何か好きなことはあるのか」
好きなこと。
そう聞かれて、すぐには答えられなかった。
母の歌を聴くのが好きだった。
三味線にのせて流れる声を、夜の座敷の隅でじっと聴いているのが好きだった。
でも、それはもうできない。
しばらく黙ってから、私は小さく答える。
「音を聴くんが、好きです」
「音?」
「はい。三味線とか、笛とか。耳で聴いて、頭の中でなぞるのが好きで」
千景が、わずかに眉を上げた。
「なぞる?」
「……再現する、いうんでしょうか。同じように辿るんです。ここで音が跳ねた、とか、今ちょっと遅れた、とか」
「三味線が弾けるのか」
「芸妓が扱う楽器は、だいたい一通り。母が、耳のええ子やって言うてました」
そこで初めて、千景の目に少しだけ興味の色が差した気がした。
「それは稽古で使える」
「稽古、ですか」
「歌舞伎の。見取り稽古と言って、見て覚える稽古がある。所作だけじゃない。調子や間も、分かれば強い」
千景は静かに言う。
けれど、歌舞伎の話になると、言葉の奥に熱が混じる。
相変わらず淡々としているのに、その淡々さの下で、何かが確かに燃えているように。
「兄さんは、歌舞伎が好きなんですね」
「好きか嫌いか、そういう話ではないけれど」
千景は少し考えてから、続けた。
「御曹司だからやっている。だが、恐らく嫌いではない」
恐らく嫌いではない。
その言い方が、ひどく千景らしいと思った。
好きと言ってしまうには照れがあるのか、それとも、そういう言葉をあまり持たずに育ってきたのか。
どこか含みを残す言い方が、歌舞伎そのものに似ている気がした。
「うちも、嫌いやないです。歌舞伎のことが」
「そうか」
千景が少しだけ目を細める。
ほんのわずかだったのに、それだけで空気がやわらいだ気がした。
「機会があれば、劇場にも来るといい」
「……よろしいんですか」
「だめなら言わない」
あまりにあっさりしていて、思わず少しだけ笑いそうになる。
もちろん、本当に叶うかどうかはわからない。
軽い一言だったのかもしれない。
それでも、その言葉は胸の中に残った。
この屋敷に来てから初めて、先のことが少しだけ楽しみに思えた。



