梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

風呂敷包みを抱え、嘉月とともに玄関へ向かう。
そこで、ふと足が止まった。

気配でわかる。
振り返ると、渡り廊下の先に千景が立っていた。

朝の光を背にして、静かにこちらを見ている。
支度前なのだろう、まだ普段着に近い着流しのままだった。
けれど、その立ち姿だけで、この屋敷の誰よりも千景だとわかる。
遠いのに、見間違えようがない。

「弥生さん。先に、玄関に向かいますね」
「はい」

二人きりになり、この距離のまま向かい合う。

見送らないで、と昨夜言ったのに。
約束できないと言われた、その通りになり、少し困ったように笑いそうになる。
けれど次の瞬間には、胸の奥がいっぱいになって、そんな余裕は消えた。

千景は、近づいてはこなかった。
その代わり、廊下の向こうから静かに言う。

「よく似合う」
「……おおきに」

ちゃんと返せたのが不思議だった。
声に出した途端、それだけで泣いてしまいそうだったのに。

千景の視線が、袴の裾をなぞる。
菊の刺繍に気づいたのかもしれない。
あるいは、ただ目に焼きつけているだけかもしれない。
今朝のこの姿を、忘れないように見ているのかもしれないと思うと、胸が苦しくなる。

「『葛の葉』、必ず」

その言葉に、小さく息を吸う。

昨夜の約束。
それを、千景はちゃんと覚えていてくれた。

「はい。観に行きます」
「待っている」
「……はい」

たったそれだけのやり取りなのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。

今すぐ駆け寄ってしまいたい。
名前を呼んでしまいたい。
でも、すぐ向こうで誰かの気配がする。
だから、ぐっと堪えて頭を下げた。

「お世話になりました」
「……ああ」

千景はそれ以上、何も言わなかった。
けれど、その短い返事の中に、引き止めたい気持ちも、送り出すしかない諦めも、全部が詰まっているように聞こえた。
何も言わないことでしか、保てないものがあるのだと、今はもうわかる。

袴だけでなく、新調された新しいブーツまで用意されている。
まるで、この家のものを全て置いていくような感覚に、少しだけ履き古したブーツが恋しくなる。

朝の空気はまだ少し冷たく、けれど空は驚くほど晴れていた。
嘉月が用意した車に荷を積み、先に乗るよう促される。
その前に、一度だけ振り返る。

渡り廊下の先に、まだ千景がいる。
遠い。けれど、目が合ったのがわかった。

その瞬間、胸の奥で何かが痛いほど締めつけられた。

もう兄ではない。
もう家族ではない。
それでも、五年という時間は消えない。

あの人の稽古を見て、舞台を見て、声を聞いて、胸を焦がした日々は、どこへ行っても私の中に残る。
それだけは、誰にも変えられない。
そっと目を伏せ、車へ乗り込む直前、嘉月が小さな声で言う。

「大丈夫ですか?」
「……まだ、大丈夫です」
「強いんですね」
「強くないです。ただ」

もう一度だけ顔を上げた。

「約束を、もらったので」
「約束?」
「次の舞台を、観に行く約束です」

嘉月は一瞬だけ目を丸くし、それから静かに微笑んだ。

「それは、よい約束ですね」
「はい」

車がゆっくりと動き出す。
五年間過ごした東城院の門が少しずつ遠ざかる。
渡り廊下も、庭も、あの稽古場も、全部が朝の光の中へ溶けていく。

膝の上でそっと手を握った。
千景のぬくもりは、もうそこにはない。
けれど、約束だけは確かに残っていた。
離れても消えないものが、ひとつだけあると思えることが、今の私には救いだった。

だから今は、まだ泣かない。
泣くのはきっと、『葛の葉』を観るその日まで取っておこうと思った。
あの人が去る女をどう演じるのか、その背中をどう見せるのか、ちゃんと見届けるまでは。
それまでは、この朝の痛みごと、静かに抱えていこうと思った。