梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

翌朝、目が覚めた時には、もう屋敷の空気が少し違っていた。

いつもと同じ朝のはずなのに、どこかよそよそしい。
廊下を行き交う女中たちの足音も、障子の向こうで交わされる声も、今日だけは一歩引いたところから響いてくるように。
誰も何かを言うわけではない。けれど、この屋敷に流れる気配そのものが、私をもう外へ送り出す側に回ってしまったのだとわかる。

ゆっくりと身を起こし、昨夜まとめた荷を見た。

風呂敷に包まれた、ほんの少しの持ち物。
五年という年月のわりに、あまりにも軽い。
けれど、その軽さがかえって胸に沁みた。
この家で過ごした時間の重さに比べたら、持ち出せるものはあまりにも少ない。
朝の匂いも、渡り廊下の板の冷たさも、稽古場から漏れる音も、風呂敷の中には入らないのだと思うと、胸の奥が静かに痛んだ。

しばらくして、障子の外から控えめな声がかかる。

「弥生さん、よろしいでしょうか」
「はい」

障子を開けると、嘉月はいつもと同じ、きちんとした身なりのまま立っていた。
その手には、大事そうに包まれた細長い箱がある。
昨日と同じ人なのに、今日は少しだけ顔つきが違って見えた。
躊躇いよりも、決めた人の静けさが勝っている顔だった。

「出立の前に、これを」
「……私に、ですか」
「ええ」

嘉月が桐の箱を置くと、ゆっくりと紐を解き蓋を開ける。
中には一揃いの袴が収められていた。

深い藤色に近い、やわらかな紫。
光の加減で薄く灰を含んで見える上品な色で、袴の裾にはごく細やかに菊の刺繍が散っている。
合わせる着物は淡い生成りに、袖口と裾だけに同じ菊が控えめにあしらわれていた。

派手ではない。
けれど、一目で上等だとわかる。
それに、ただ華やかなだけの装いではない。
誰かの目を惹くためではなく、私のため、私を娘として迎え入れるために選ばれた衣裳だと、見た瞬間にわかった。

「こんな、立派なものを……」
「振袖も考えました」

嘉月は少しだけ笑った。

「ですが、あなたにはこちらの方が似合うと思った。よく似合うでしょう。弥栄菊さんも、たぶんそう言う」

母の名が出た瞬間、胸の奥がふわりと揺れた。
母は華やかな着物も似合う人だった。
けれど、あの人は自分の美しさを見せるより、仕草や声で人を惹きつける人だった気がする。
艶やかでありながら、決してただ飾られるだけの人ではなかった。

だから、きっと。
きっとこの袴を見たら、似合うと言ってくれる。

「……ありがとうございます」
「礼はいいんです。着てみてください」

そう言われて、少しだけ笑い支度を整える。
着物を重ね、袴の紐を結ぶ。
鏡の前に立つと、見慣れない自分がいた。

いつもの何の刺繡もない袴とは違う。
あの日、自分だけ知らされずに劇場へ向かった時の、あの働くための姿とも違う。

誰かの手伝いのためではなく、誰かに言いつけられたからでもなく、ちゃんと一人の娘として整えられた姿。

それは、嘉月の精いっぱいの私に対する誠意なのだろう。
そして、遅すぎたとしても迎えに来た人の、せめてもの償いでもあるのかもしれない。