梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

やがて千景が動きを止める。

「どうだった」
「……さっきより、ずっと」
「ずっと?」
「別れが、見えました」

千景がこちらを見る。
その目が、月明かりを吸ったみたいに静かだった。

「別れ、か」

たったそれだけの返事なのに、なぜか胸がいっぱいになる。
その場で、小さく頭を下げた。

「今日は、もう休まはった方がええです」
「お前もな」
「はい」

今のままでは、これ以上ここにいたら、言わなくていいことまで言ってしまいそうになってしまう。
稽古場を出ようとして、ふと振り返る。

「兄さん」
「何だ」
「明日、ちゃんと見送らんでくださいね」
「……なぜだ」
「見送られたら、泣いてしまいそうやから」

言ってから、しまったと思った。
けれど千景は笑うことなく、少しだけ困ったような顔をする。

「それは約束できないな」
「もう」
「弥生」

呼ばれて足を止める。
千景は、今度こそごく静かな声で言った。

「次に会った時、前に一度望んだことを、もう一度望んでもいいだろうか?」

前に望んだこと。
千景が私に望んだこと。

『千景、と呼んでほしい』

初めて抱き締められた時のこと。
あの時と同じように、耳まで熱くなる。
妹だと思っていたから、どうしても呼べなかった名前。
でも今は違う……

「……その顔は覚えているな」
「忘れるわけ、あらしまへん」
「明日、どんな顔で出ていこうと、お前がこの五年をここで生きたことは消えない」
「……はい」
「忘れるな」

うまく返事ができない。
ただ頷いて、今度こそ稽古場を後にする。
背を向けたあともしばらく、千景の視線が自分を追っているような気がして、振り返りたくなるのを必死でこらえた。

廊下へ出ると、夜気が頬にひんやりと触れた。
けれど胸の奥は、まだ熱いまま。
歩き出しても、その熱は少しも冷めない。

明日になれば何もかも変わってしまう。
この屋敷も、この距離も、この呼び方も、きっと今までのままではいられない。
それでも今夜の約束だけは、確かに私のものだった。
それがあるだけで、私は明日を越えられる気がした。
たぶん。少しだけ。