梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

「……よろしいんですか」
「何が」
「うち、もう東城院の人間ではなくなるのに」
「だから何だ」

千景はわずかに眉を寄せた。

「お前は、もう来たくないのか」
「そんなこと、あるわけ……」

そこまで言って、言葉が止まる。
来たくないわけがない。
見たくないわけがない。
千景の舞台を、私はずっと見ていたい。

けれど、その気持ちをそのまま出してしまったら、あまりにもあけすけだった。
俯いた私を見て、千景の声が少しだけやわらぐ。

「弥生」
「……はい」
「『葛の葉』は、きっと難しい」
「はい」
「お前が観にきてくれると思うと、がんばれる」

ひどく真面目な顔で、そんなことを言う。
千景は昔から、必要な時だけそうやって、まっすぐな言葉を落としてくる。
こちらが断れないとわかっているように。
そういうところまで、ずるいと思う。
ずるいのに、嬉しい。

私は小さく息をついた。

「観に行きます」
「本当か」
「はい」

自分でも驚くほど、迷いのない声。
顔を上げると、千景の表情がほんの少しだけほどける。

そのやり取りがあまりにも自然で、まるで明日になっても何も変わらないみたいだった。
稽古が終わればまた感想を聞かれて、私が答えて、千景が少しだけ目を細める。
そんな時間が、この先も続いていくみたいに思えてしまう。

けれど、変わる。
明日になれば、私はこの屋敷を出る。
千景は東城院に残り、『梨園の娘』でなくなった私は、嘉月の娘として別の場所へ行く。

わかっているのに、今この瞬間だけは、その約束がひどく嬉しい。
先のことを言ってくれるだけで、まだどこかで繋がっていられる気がして。

千景は再び稽古場の中央へ戻り、そして今度は、さっきよりもずっと静かに歩いた。
去ると決めた女の背中。
それでも置いていくものを振り返らずにはいられない女の、最後の躊躇い。
引っ込みへ向かうそのわずかな重さにまで、情が滲んで見えた。

襖のそばに立ったまま、その背を見つめる。
月の光と灯りの境目を行き来する白い袖が、触れれば消えてしまいそうなくらい綺麗だった。

ああ、やっぱり好きだ。
舞台の上の千之助も、稽古場で一人役を追い込む千景も、どちらも同じくらい好きで仕方ない。
役に入りきった後ろ姿さえ、見ているだけで胸がいっぱいになる。

それでも今夜は、泣かないことにした。

明日、私は出ていく。
だからせめて今だけは、約束をもらったこの小さな幸福を、静かに抱いていたかった。
別れの方ばかり見て、この一瞬を濁らせたくない。