梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

荷造りは、思っていたよりあっけなく終わった。

もともと、この屋敷に来た時から、私の持ち物は多くなかった。
数枚の袴に、いくらかの着物や簪。学校で使っていたもの。それと母の形見の根付。
五年分の暮らしを詰めるには、あまりにも小さな荷だった。

荷をまとめ終えたあとも、すぐには横になる気になれず、部屋の隅に置いた風呂敷包みを、しばらくぼんやり見つめていた。

明日になれば、この部屋を出る。
この屋敷も、渡り廊下も、庭も、朝の台所の匂いも、夜更けに遠くから聞こえてくる稽古の音も、もう私のものではなくなる。

たった数日で、こんなに何もかもが一変するなんて、思っていなかった。

そう思うと、不思議なほど胸の内は静かだった。
泣くほどでもなく、かといって平静でもない。
ただ、長い間見ていた夢の終わりを待っているような、そんな心地がした。

ふいに、夜の静けさの底で何かが揺れた。
遠くから、かすかに音がした。
板の軋むような、衣擦れのような、小さな音。
それに続いて、低く息を吐く気配。

この時間に、まだ稽古場に誰かいる。
しかも、あの足の運びは、よく知っている。

そっと障子を開け、廊下へ出る。
夜の屋敷はしんと静まり返っていて、自分の足音さえ響きすぎる気がした。
けれど、稽古場に近づくほど、その気配は確かなものになっていく。

襖はわずかに開いていた。
そこから漏れる灯りの向こうで、白い稽古着の袖がひるがえる。

千景が一人で、誰に見せるでもなく、ただ黙々と、板の上を歩いている。

足の運びが、先日までの『八重垣姫』とは違っていた。
姫の重心ではない。
もっと柔らかく、もっとひそやかで、それでいて、どこか哀しみを含んだ歩き方。

袖を返す角度。
視線を落とす間。
声にならない息の置き方。
どれも静かなのに、見ているこちらの胸の奥へまっすぐ届いてくる。

襖の影に立ったまま、しばらく息をするのも忘れて見入った。

もう、わかる。
『梨園の娘』として、この家に引き取られた五年で、見るだけで何の演目かがわかるくらいには、歌舞伎のことを知るようになっていた。
最初はただ、千景の稽古を見ていただけなのに。
気づけば、立役と女方の違いも、姫役の格も、義太夫の語りがどう役の情を支えているかも、少しずつ身体に入ってきていた。

そして今、目の前のその所作が、誰のものなのかも。

「……『葛の葉(くずのは)』」

気づけば、声に出ていた。
自分でも、あまりに自然にその名が唇から零れたことに少し驚く。

ぴたり、と千景の動きが止まる。
こちらを振り向いたその顔に、驚きが浮かぶ。

「弥生」
「すみません……見てしまって」
「いや」

千景は一度だけ息を整え、それから稽古場の中央に立ったまま、少しだけ笑った。

「わかるのか」
「はい」

襖をもう少し開け、中へ足を踏み入れた。

「その足の運び方、姫と違います。もっと……何かを残していく人の歩き方です」
「残していく人」
「ええ。振り返りたいのに振り返れない、みたいな」
「……なるほど」

千景の目が、わずかに細くなる。
その一瞬が嬉しくて、けれど自分の口にした言葉に、すぐ胸の奥が小さく痛む。

『葛の葉』。
夫と子を残して去る女。
その役を、今この夜に千景が稽古していることが、あまりにも出来すぎていて、少しだけ怖い。
去ると決めたのに、心まできっぱり置いていけるわけではない女。
その後ろ姿が、どうしても、明日の自分と重なってしまう。

千景はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

「次はこれだ」
「はい」
「観に来てほしい」

その一言に、胸が揺れた。

前なら、何の迷いもなく頷いていただろう。
でも今は違う。
明日になれば、私はこの屋敷を出る。
嘉月の家に引き取られる。
千景とも、今までのようには会えなくなる。

それなのに千景は、ごく自然にその先の約束を口にしてくれた。
まるで、私が明日ここを出ていくことなど、舞台の次の幕が上がることに比べればたいしたことではない、とでも言うみたいに。
その自然さが、ありがたくて、少しだけ残酷だった。
泣きたくなるほどに。