梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

応接間がしんと静まる。

「生活費を請求する気もない。返してくれ」
「……大変、失礼しました」

嘉月は少しだけ目を伏せ、封筒を引く。
鴇子はなおも硬い顔をしていたが、宗景の言葉には何も挟まなかった。
薫子だけが、まだどこか納得しきれない顔で唇を噛み、私を睨んでくる。

「……『弥生(やよい)』の名は、『弥栄菊(やえぎく)』の名から取ったのだと思っていたが……違ったのだな」
「え……?」

何を言われたのかわからず、私と嘉月は宗景を見た。

「『嘉月(かげつ)』もまた、弥生の異称だ」

ぱっと隣に座る嘉月を見る。
その横顔には驚きが走り、瞳が揺れているように見えた。

母は、ちゃんと父が誰かわかっていて、嘉月の名前から、私の名前を付けた……

宗景を見つめる。
あの日、私の名前すら覚えていなかった父だと思っていた人。
そんな人が、私の名前の由来を教えてくれた。

この家に住まわせながら、娘にも使用人にもなりきれない場所へ私を置いた。
それでも今、最後の最後で、金で片づけることだけはしなかった。

『娘として扱えなかった責はある』

宗景なりの私に対する謝罪かもしれないし、単にプライドかもしれない。
許すとか、許さないとか、そんな単純な話ではなく。
けれど、その拒絶には彼なりの意地があるのだろう。

本当の父ではなかったけれど、宗景は紛れもなく、この五年間は私の父だったのかもしれない。
初めてそう思えた。

少なくとも、私の五年を金額に直して終わらせるつもりはないのだと、それだけは伝わった。

「弥生」
「……はい」
「お前が行きたいと思う方へ行け」

その言葉に、顔を上げる。

「東城院に残る理由は、もうない」
「父上」
「千景」

宗景は、今度は息子である千景を見た。
その視線の中に、私には読めないものがいくつもあった。
当主としての顔、父としての迷い、そして、たぶん少しの後悔。

「お前も、もうわかっているのだろう」

千景は何も答えず、ただ、いつになく強い目で宗景を見返した。
応接間の空気が静かに張りつめていく。

膝の上で手を握りしめる。
東城院で過ごした五年が終わろうとしている。
そう思うだけで胸のどこかが痛むのに、同時に、何かがほどけていくようでもあった。

いざどこへでも、好きなところに行けると思うと、急に不安が押し寄せてくる。
でも、ここに残ることだけはできない。それだけはわかった。
座っているのに、まるで船の上のように身体がぐらつくような感覚。
私の不安に気が付いた、嘉月がそんな気持ちを打ち消すように、穏やかに声をかけてくれる。

「弥生さん。急いで決めることはありません」
「……」
「ですが、迎えに来たことだけは、今度こそ曖昧にしたくない」

その言葉は、急かすためというより、もう曖昧なままにはしないと決めた人の声に聞こえる。
すぐに何かを答えられるほど、胸の中はまだ整理できていない。

その言葉を静かに聞いた。
そして、千景の気配を近くに感じながら、小さく頷く。

応接間の空気はまだ重いまま。
けれど、もう誰もさっきまでと同じ顔で、同じ関係ではいられないのだとわかる。
私も。
千景も。
宗景も、鴇子も、薫子も。
そして嘉月も。

千景と兄妹ではなかった。
その事実は、何もかもを一度で救うものではない。
むしろ、今まで見ないようにしていたものを、全部見なければならなくなってしまった気がした……