梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

顔を上げ、ようやくそれだけ言った。

「母が、どんな思いでうちを産んで、どうして黙っていたのか」
「弥生さん」

嘉月の声が揺れる。

「本当の父が誰か……知りたいです」
「……ありがとうございます」

嘉月に深く頭を下げられる。
その仕草は、どこか商人らしいきちんとしたものだったが、最後の最後で少しだけ乱れた。
それだけ、この人も動揺しているのだろう。
礼を返されているはずなのに、こちらの方が息苦しい。
この人の人生にも、母の人生にも、私の知らない十八年が確かにあったのだと思わされるからだ。

千景はまだ硬い顔のまま。
けれど反対はしない。

「血液型を調べるだけで終わる話ではないはずだ」
「ええ」

嘉月はすぐに頷く。

「弥栄菊さんの遺したものがあれば、そちらも確かめられたらと思っています」
「遺したもの……」
「形見でも、文でも」
「文は……置屋に連絡したら手に入るかもしれません。あとは遺品の中に母の簪と……いつも大切にしていた根付ならあります」
「根付?」

嘉月の表情が、初めて大きく揺れた。

「……どんなものです」
「小さな細工物です。菊の花の形で」
「菊……」

嘉月は、それきり黙る。
けれど、その顔色が変わるのを見逃さなかった。
ただの形見の話ではない顔。

千景もそれに気づいたらしい。

「心当たりがあるのか」
「はい。それは、私が弥栄菊さんに渡したものかもしれません」

嘉月は、ゆっくりと息を吐いた。
また沈黙が落ちる。

けれど今度の沈黙は、さっきまでのものとは違っていた。
ただ驚きに止められているのではなく、確かに何かが前へ進み始めている沈黙だった。
今まで雲の中にあったものが、輪郭だけでも見え始めている。
そんな沈黙だった。

「南蛮渡来のものなら、間違いなく」
「……わかった」

千景が、そう言うと、まっすぐ私を見てくる。

「血液型は調べる。その上で、形見も確かめよう」
「兄さん……」
「ただし」

千景の視線が、まっすぐ嘉月へ向かう。

「これ以上、弥生を勝手に振り回すな。何を調べるにしても、必ず俺のいるところで話せ」
「わかりました。お約束します」

嘉月は、今度は迷いなく頷く。
そのやりとりを見ながら、胸の奥に奇妙な感覚が広がっていくのを覚えた。

怖い。
知るのが怖い。
今まで自分が信じていたものが、全部ひっくり返るかもしれない。

それでも、もう知らない自分には戻れない。
千景がそっと、肩に手を置く。

大丈夫だ、と言葉にはしない。
でも、その手の重みだけで十分、逃げるなとも、急ぐなとも言わない。
ただ、ここにいると伝えるみたいな置き方だった。

私は、小さく頷く。

昨日までの私は、『梨園の娘』として、千景の妹として、東城院の家で生きていくのだと信じていた。
それは苦しくても、疑いようのない前提だった。
けれど今、その前提そのものが揺れている。
怖いのに、胸のどこかでは、その揺れにすがりつきたくなる自分までいる。
そんな自分を、誰より私自身がいちばん怖いと思った。

怖いのに、知りたい。
母が黙っていた理由も。
嘉月が今さら現れた理由も。
そして、私が本当は誰の娘なのかも。

劇場の冷たい朝の空気の中で、何かが音もなく動き始めていた。
それは母の過去かもしれないし、私の生まれにまつわる真実かもしれない。
けれど同時に、千景と私のあいだに引かれていた線そのものを揺らすものでもあった。