梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

「今の男は誰だ」

背後から落ちた声に、肩が跳ねる。
振り返ると、千景が立っていた。

もう鬘も白塗りも落としている。
けれど、ついさっきまで舞台の真ん中にいた人の気配が、まだどこかに残っていた。
人に囲まれていたはずなのに、どうやってここまで来たのかわからないくらい、唐突にそこにいるように見える。
まるで、私が一人になるのを待っていたみたいに。

「兄さん……」
「今、お前と話していた男だ」

千景はロビーの出口の方へ目をやった。
嘉月が去った方向を、気にしている。
その目つきは、ただの詮索ではなく、警戒している。そんな目だった。

「誰だ」
「……貿易を営んでいらはる、嘉月さん、と」
「知り合いか」
「いいえ」
「では、なぜ話していた」
「最初、うちを見て……弥栄菊と母の芸妓の名前で呼ばはって」
「弥栄菊、か」

千景の眉が、ごくわずかに寄る。
その名を口にした時、声も少しだけ低くなった気がした。

「母とご縁があったそうです」
「それだけか」
「はい。……でも、何かを確かめるみたいな目をしてはりました」

自分でも、それ以上どう説明していいのかわからず、言い淀んでしまう。
ロビーの明かりの下で見る千景の横顔は、さっき楽屋で見た時よりずっと硬い。
瑠璃子を切った時とも違う。もっと静かで、もっと掴みにくい顔。
考え込んでいるのに、その考えを簡単には外へ出さない時の顔。

「兄さん?」
「いや」

千景は短く答え、それから改めて私を見る。
その視線の戻し方が、妙に早い。

「もう帰るのか」
「はい。遅うなってしまいましたし……」
「一人でか」
「ええ」

その返事に、千景の目がまた揺れる。

「俺も一緒に帰ろう」
「そんな、大丈夫です」
「大丈夫ではない。千穐楽の夜だ。人も多い」
「でも、兄さんはこの後もお付き合いが……」
「それとこれとは別だ」

きっぱりと言われて、言葉を失う。
あまりに迷いのない声だった。

さっきまで、大勢の人の前で東城院家の御曹司として振る舞っていた人と、同じだとは思えない。
今ここにいる千景は、ただ、私を一人で帰らせたくないと思っている顔をしていた。
そのことが、嬉しいのに落ち着かない。

「……ありがとうございます」
「礼はいらない」

そう言ってから、千景は少しだけ間を置く。
何かを考えながら言葉を選ぶような間。

「その嘉月という男」
「はい」
「また来るかもしれないな」
「え?」
「そんな気がする」
「どうして」
「わからない」

目を瞬くと、千景がほんのわずかに目を細める。

「だが、話を聞く限り、昔を懐かしむだけのものではないように聞こえた」
「……兄さんも、そう思わはりますか」
「ああ」

その一言に、胸の奥が小さく揺れる。
自分だけが妙な引っかかりを覚えたわけではないのだと思うと、少しだけ心が軽くなった。
けれど同時に、千景があの短い一瞬をそこまで気にしていることにも、どうしようもなく胸が騒ぐ。

二人で劇場を出ると、夜気は思ったより冷たく、昼の熱を忘れたみたいに頬を撫でていく。
千景は表通りに出るまで、歩幅に合わせて静かに歩いた。
早くもなく、遅くもなく、置いていかれない速さで。

何を話すでもない。
それなのに、隣に人がいるだけで、こんなにも落ち着かないのはどうしてだろう。

嘉月のことを考えていたはずなのに、意識はどうしても隣の人へ向いてしまう。
袖が触れそうで触れない距離。
歩幅を合わせる足音。
黙っていても、こちらを気にしているのがわかる空気。
さっき楽屋で触れた指先の熱まで、いまさら思い出してしまう。

「弥生」
「はい」
「明日も劇場へ来るか」
「そのつもりです」
「……無理はするな」

その言葉に、弥生は思わず笑いそうになった。

「またそれですか」
「また、とは何だ」
「兄さんは、うちがいるとすぐ顔色が悪いだの、無理をするなだの、いわはるから」
「実際、無理をしているだろう」

まっすぐ言われて、返す言葉を失う。
図星だった。
学校を辞めてから、劇場でも屋敷でも、少しでも役に立たなければと思って動いている。
そうしていないと、自分の居場所が薄くなってしまう気がして怖くて。

「明日は片付けだけですんで」

言い訳みたいな返事。
千景はそれ以上何も言わない。
ただ、私がそれ以上言いたくないのを察したように、黙って前を向いた。
その黙り方まで、少し優しくて嫌になる。

屋敷の門が見える頃、千景がふと足を止める。

「もし、明日あの男がまた来たら」
「はい」
「一人で話すな」

小さく目を見開く。
千景は視線を逸らさない。

「俺もいるところで話せ」
「兄さん……そない、気になりますか」
「ああ」

間を置かずに返された言葉が、胸の奥にまっすぐ落ちてくる。
嘉月を警戒しているだけ。
そうわかっていても、少しだけ嬉しいと思ってしまう自分がいた。

「わかりました」
「ならいい」

千景はそれだけ言うと、ようやく屋敷の中へ視線を戻した。
言いたいことはまだありそうなのに、そこで止める。
その止め方にまで、千景らしさが出ていた。

その夜は、眠りが浅く、なかなか寝付けなかった。
嘉月の言葉。
母の名を呼んだ声。
そして、それ以上に、ロビーでの千景の顔が何度も思い出された。

『今の男は誰だ』

その一言に滲んでいた、説明のつかない硬さ。
ただ母の知り合いかもしれない人を気にしているだけなのに、どうしてあんな顔をしたのだろう。
嘉月のことを考えているはずなのに、気がつくと、あの時の千景の目ばかり思い出してしまう。

布団に入って目を閉じても、眠りは浅いところばかりを滑っていく。
嘉月が母の名を呼んだ時の、あの躊躇いのない声。
弥栄菊と母の名を伝えた瞬間に揺れた目。
そして何より、千景がその話を聞いた時にだけ見せた、あの硬い横顔。

もし本当に、あれが私の想像する通りに、嫉妬なのだとしたら。
そんなふうに思ってしまうこと自体、いけないことのはずなのに、胸のどこかでは何度も確かめたくなってしまう。
眠れない夜の中で、何度も寝返りを打った。