嘉月。
やはり、記憶にはない名前。
物心ついてからの、母の御贔屓さんの何人かにはとてもよくしてもらった。
私の知る範囲の中で、この人はいない。
だからこそ、余計にこの人が何を知っているのか気になった。
「失礼ですが、お名前をお伺いしても?」
「……東城院弥生です」
「弥生、さん……」
その名を、嘉月は口の中で静かに繰り返した。
その響きを確かめるように、ゆっくりと。
「……よいお名前だ」
「ありがとうございます」
嘉月は少しだけ視線を和らげたが、それでもなお、何かを探るような目をしていた。
親しげというより、決め手を探しているような、落ち着かない眼差し。
「もし差し支えなければ」
「はい」
「お母上のお名前を、聞いても?」
警戒するべきなのか、そうでないのか、一瞬判断がつかなかった。
けれど嘉月の声には、下世話な好奇心の色がない。
ただ、本当に知りたいのだとわかる声。
そして、恐らく母の客だったのだろうとも思う。
「……先ほど呼ばれた、弥栄菊です」
その瞬間、嘉月の目がはっきりと揺れた。
ほんの一瞬だけ、呼吸まで止まったように見えた。
「やはり」
独り言みたいにそう漏らすけれど次の瞬間には、また静かな顔に戻っていた。
戻っていたのに、その下に動いたものは隠し切れていなかった。
「母を、ご存じなんですね」
「ええ。昔、少しばかりご縁がありました」
ご縁。
その言い方は曖昧だったけれど、ただの一見の客ではないのだとわかる。
黙っていると、嘉月は続けた。
「お母上には、よく唄っていただいたものです」
「そうなんですね」
「弥栄菊さんは、今どちらに?」
「……私が十二の時に亡くなりました」
「そう、ですか……」
嘉月はふっと遠くを見るような目をした。
懐かしんでいるような目が、何かを悔やんでいるような、妙に静かな目に変わる。
その沈黙だけが少し長くて、ロビーのざわめきから切り離されたみたいに感じる。
また短い沈黙が落ちる。
劇場のロビーは相変わらず賑やかなのに、この一角だけは妙に静かだった。
嘉月の視線は柔らかい。なのに、どこか落ち着かない。
優しいようでいて、何かを見定めようとしているみたいな視線を感じる。
「あの、まだ何か……」
他に何か、聞きたいことがあるのだろうか。
わずかに首を傾げる。
「いえ。今日は突然、失礼しました」
「そんな」
「ただ、どうしても声をかけずにはいられなかった」
その言葉だけが、妙にまっすぐだった。
社交辞令で済ませるには、少し真剣すぎる響きにも聞こえ、戸惑いながらも、小さく頭を下げる。
「いえ、母を覚えていてくださって、ありがとうございます」
「忘れられる方ではありませんでしたから」
嘉月はそう言って、ほんのわずかに笑った。
けれどその笑みも、すぐに消える。
最後にもう一度、正面から顔を合わせる。
その視線には、やはり何かがある。
懐かしさだけではない。
確かめたい何かが、まだ残っているような目だった。
「では、また。もう少し落ち着いてから、改めてご挨拶を」
「……え?あ、はい」
嘉月の背中が人波の向こうへ消えても、しばらくその場に立ち尽くしていた。
劇場のロビーはまだ熱を残している。
千穐楽の余韻に浸る人々の声、誰かの笑い声、客の足音。
そのざわめきの中で、たった今交わした会話だけが妙に浮いて感じられた。
母の名を呼んだ、知らない男。
弥栄菊を知っていると言った。
懐かしむだけではない、何かを探るような目。
胸の奥に小さな棘が残ったまま、ようやく歩き出そうとした。
やはり、記憶にはない名前。
物心ついてからの、母の御贔屓さんの何人かにはとてもよくしてもらった。
私の知る範囲の中で、この人はいない。
だからこそ、余計にこの人が何を知っているのか気になった。
「失礼ですが、お名前をお伺いしても?」
「……東城院弥生です」
「弥生、さん……」
その名を、嘉月は口の中で静かに繰り返した。
その響きを確かめるように、ゆっくりと。
「……よいお名前だ」
「ありがとうございます」
嘉月は少しだけ視線を和らげたが、それでもなお、何かを探るような目をしていた。
親しげというより、決め手を探しているような、落ち着かない眼差し。
「もし差し支えなければ」
「はい」
「お母上のお名前を、聞いても?」
警戒するべきなのか、そうでないのか、一瞬判断がつかなかった。
けれど嘉月の声には、下世話な好奇心の色がない。
ただ、本当に知りたいのだとわかる声。
そして、恐らく母の客だったのだろうとも思う。
「……先ほど呼ばれた、弥栄菊です」
その瞬間、嘉月の目がはっきりと揺れた。
ほんの一瞬だけ、呼吸まで止まったように見えた。
「やはり」
独り言みたいにそう漏らすけれど次の瞬間には、また静かな顔に戻っていた。
戻っていたのに、その下に動いたものは隠し切れていなかった。
「母を、ご存じなんですね」
「ええ。昔、少しばかりご縁がありました」
ご縁。
その言い方は曖昧だったけれど、ただの一見の客ではないのだとわかる。
黙っていると、嘉月は続けた。
「お母上には、よく唄っていただいたものです」
「そうなんですね」
「弥栄菊さんは、今どちらに?」
「……私が十二の時に亡くなりました」
「そう、ですか……」
嘉月はふっと遠くを見るような目をした。
懐かしんでいるような目が、何かを悔やんでいるような、妙に静かな目に変わる。
その沈黙だけが少し長くて、ロビーのざわめきから切り離されたみたいに感じる。
また短い沈黙が落ちる。
劇場のロビーは相変わらず賑やかなのに、この一角だけは妙に静かだった。
嘉月の視線は柔らかい。なのに、どこか落ち着かない。
優しいようでいて、何かを見定めようとしているみたいな視線を感じる。
「あの、まだ何か……」
他に何か、聞きたいことがあるのだろうか。
わずかに首を傾げる。
「いえ。今日は突然、失礼しました」
「そんな」
「ただ、どうしても声をかけずにはいられなかった」
その言葉だけが、妙にまっすぐだった。
社交辞令で済ませるには、少し真剣すぎる響きにも聞こえ、戸惑いながらも、小さく頭を下げる。
「いえ、母を覚えていてくださって、ありがとうございます」
「忘れられる方ではありませんでしたから」
嘉月はそう言って、ほんのわずかに笑った。
けれどその笑みも、すぐに消える。
最後にもう一度、正面から顔を合わせる。
その視線には、やはり何かがある。
懐かしさだけではない。
確かめたい何かが、まだ残っているような目だった。
「では、また。もう少し落ち着いてから、改めてご挨拶を」
「……え?あ、はい」
嘉月の背中が人波の向こうへ消えても、しばらくその場に立ち尽くしていた。
劇場のロビーはまだ熱を残している。
千穐楽の余韻に浸る人々の声、誰かの笑い声、客の足音。
そのざわめきの中で、たった今交わした会話だけが妙に浮いて感じられた。
母の名を呼んだ、知らない男。
弥栄菊を知っていると言った。
懐かしむだけではない、何かを探るような目。
胸の奥に小さな棘が残ったまま、ようやく歩き出そうとした。



