ようやく楽屋の空気が少し落ち着き、人の輪の外へそっと身を引いた。
まだ胸の奥は騒いだまま。
瑠璃子を切った千景の冷たい声も、着物の陰で交わした秘密めいたぬくもりも、どちらもまだ身体のどこかに残っている。
指先をほどかれたあとなのに、そこだけまだ熱を持っている気がした。
このままここにいてはいけない。
今の自分は、少し顔を見られただけで何もかも悟られてしまいそうで。
嬉しいのか、苦しいのか、怖いのか、自分でもわからないものが胸の奥で混ざり合っていて、とても人前に立っていられる顔ではない。
頭を冷やすために、楽屋口を抜け、ロビーへ出る。
千穐楽を終えた劇場は、まだ華やいでいた。
客たちの興奮は完全には冷めきっておらず、興行の大成功を惜しむように、あちこちで笑い声や話し声が弾んでいる。
花束を抱えた女たちが名残惜しそうに足を止め、旦那衆らしい男たちが上機嫌に役者の名を口にしていた。
天井近くにはまだ熱がこもっていて、外気に触れた頬だけが冷たい。
人波を避けるように、柱沿いを静かに歩いた。
誰とも目を合わせず、このままそっと帰れたらいいと思った。
「……弥栄菊さん?」
すれ違った人が、背後から不意に母の名を呼んだ。
聞き間違いではない。確かに弥栄菊、と。
振り返ると、そこには見知らぬ男性が立っていた。
四十を少し過ぎたくらいだろうか。
仕立てのよい洋装の上に外套を羽織り、劇場の賑わいの中にあってもどこか落ち着いた空気をまとっている。
商家の旦那衆とも、役者の贔屓筋とも違う。けれど、こういう場所に不慣れな人間のよそよそしさもない。
場慣れした人間の立ち姿。
彼は私の顔を見るなり、わずかに目を見開いていた。
その驚きがあまりにも率直で、かえって戸惑ってしまう。
彼は、はっとしたように表情を和らげ、小さく頭を下げた。
「ああ、失礼しました。古い知り合いに、似ていたものだから」
「……え?」
柔らかく、よく通る声。
古い知り合い。その言葉に、胸が小さくざわつく。
「……私が、ですか」
「ええ」
彼は改めて私の顔をまっすぐ見た。
ただ見ているだけなのに、何かを確かめるような眼差し。
顔立ちだけでなく、声の調子や息の置き方まで拾おうとするみたいな、そんな目。
「声も、よく似ている。……それに、目元も」
その答えに、無意識に、着物の袖を握りしめる。
「そのお知り合いというのは……」
「ずいぶん昔に、京都で。まさか、こんなところで面影に出会うとは思わなかった」
そこでほんの少しだけ、苦笑が浮かぶ。
その表情は、本当に昔を懐かしんでいるような。
私の向こうに誰かの面影を見ているような、そんな表情に見えた。
京都で。
その一言だけで、母のことを思い出してしまう。
春先の座敷で、三味線の前にきちんと座る背筋。
支度の合間に髪を直しながら、鏡越しにこちらを見て笑った顔。
『梨園の娘』になって、たくさんの三味線の音を聴いてきたけれど、母の三味線の音が、今でも私は世界で一番好きだ。
もう何年も前のことなのに、今でもあの音を思い出すと胸の奥がきゅっとする。
「突然すいません。私、横浜で貿易商を営んでおります嘉月と申します」
まだ胸の奥は騒いだまま。
瑠璃子を切った千景の冷たい声も、着物の陰で交わした秘密めいたぬくもりも、どちらもまだ身体のどこかに残っている。
指先をほどかれたあとなのに、そこだけまだ熱を持っている気がした。
このままここにいてはいけない。
今の自分は、少し顔を見られただけで何もかも悟られてしまいそうで。
嬉しいのか、苦しいのか、怖いのか、自分でもわからないものが胸の奥で混ざり合っていて、とても人前に立っていられる顔ではない。
頭を冷やすために、楽屋口を抜け、ロビーへ出る。
千穐楽を終えた劇場は、まだ華やいでいた。
客たちの興奮は完全には冷めきっておらず、興行の大成功を惜しむように、あちこちで笑い声や話し声が弾んでいる。
花束を抱えた女たちが名残惜しそうに足を止め、旦那衆らしい男たちが上機嫌に役者の名を口にしていた。
天井近くにはまだ熱がこもっていて、外気に触れた頬だけが冷たい。
人波を避けるように、柱沿いを静かに歩いた。
誰とも目を合わせず、このままそっと帰れたらいいと思った。
「……弥栄菊さん?」
すれ違った人が、背後から不意に母の名を呼んだ。
聞き間違いではない。確かに弥栄菊、と。
振り返ると、そこには見知らぬ男性が立っていた。
四十を少し過ぎたくらいだろうか。
仕立てのよい洋装の上に外套を羽織り、劇場の賑わいの中にあってもどこか落ち着いた空気をまとっている。
商家の旦那衆とも、役者の贔屓筋とも違う。けれど、こういう場所に不慣れな人間のよそよそしさもない。
場慣れした人間の立ち姿。
彼は私の顔を見るなり、わずかに目を見開いていた。
その驚きがあまりにも率直で、かえって戸惑ってしまう。
彼は、はっとしたように表情を和らげ、小さく頭を下げた。
「ああ、失礼しました。古い知り合いに、似ていたものだから」
「……え?」
柔らかく、よく通る声。
古い知り合い。その言葉に、胸が小さくざわつく。
「……私が、ですか」
「ええ」
彼は改めて私の顔をまっすぐ見た。
ただ見ているだけなのに、何かを確かめるような眼差し。
顔立ちだけでなく、声の調子や息の置き方まで拾おうとするみたいな、そんな目。
「声も、よく似ている。……それに、目元も」
その答えに、無意識に、着物の袖を握りしめる。
「そのお知り合いというのは……」
「ずいぶん昔に、京都で。まさか、こんなところで面影に出会うとは思わなかった」
そこでほんの少しだけ、苦笑が浮かぶ。
その表情は、本当に昔を懐かしんでいるような。
私の向こうに誰かの面影を見ているような、そんな表情に見えた。
京都で。
その一言だけで、母のことを思い出してしまう。
春先の座敷で、三味線の前にきちんと座る背筋。
支度の合間に髪を直しながら、鏡越しにこちらを見て笑った顔。
『梨園の娘』になって、たくさんの三味線の音を聴いてきたけれど、母の三味線の音が、今でも私は世界で一番好きだ。
もう何年も前のことなのに、今でもあの音を思い出すと胸の奥がきゅっとする。
「突然すいません。私、横浜で貿易商を営んでおります嘉月と申します」



