梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

「何かの間違いですわ」

瑠璃子の声がわずかに掠れた。

「お、お兄様っ!瑠璃子さんがそんなことするわけないじゃないっ」
「そうよっ。ね、瑠璃子さん?」

視線が泳ぐ瑠璃子さんを、鴇子も、薫子が庇う。

「……千之助さんと夜、ともに過ごした時に……」
「瑠璃子」

低く冷たい声。
怒鳴るでも、責め立てるでもない。
それなのに、言い逃れなど許さない響きがあった。
楽屋にいる誰もが、その声の先を想像して息を潜めたのがわかる。

その声を聞きながら、ただ、自分の手を包み込む熱に耐えるので精一杯になる。

「地下倉庫へ出入りするお前を見た者がいる。大道具方の男も自白した」
「……っそんな、出鱈目を」
「出鱈目かどうか、この場で仔細まで言わせる気か」

表では瑠璃子を切り捨てるような冷たい声を出しながら、裏では、ひどく熱い手で自分をつかまえている。
逃がさない、とでも言うみたいに。
その落差が激しすぎて、立っているだけでくらくらした。

千景の親指が、手の甲を一度だけなぞる。
それだけで、呼吸が浅くなる。
誰にも見えていないはずなのに、見つかったような気がして怖い。
それなのに、離してほしいとは思えない。

「今日で興行は終わりだ。綾小路家には父から伝える。お前との縁も、ここまでだ」

千景の声が落ちる。
その言葉に、瑠璃子の顔がはっきりと崩れた。
けれど、もう瑠璃子を見ている余裕なんてあるわけがない。

袖の内で繋がれたままの手から伝わる体温。
人前では決して見せられない、そのたったひとつの秘密。

まるで二人だけが、別の場所に立っているみたいに。

ここには大勢の人がいる。
祝いの花も、衣装も、化粧道具も、誰かの視線も、全部ここにある。
なのに今、私の世界は、千景の指先ひとつぶんに閉じ込められていた。
瑠璃子の言葉も、周囲のざわめきも、遠くで鳴っているだけみたいに聞こえる。
この場で本当に確かなものは、袖の内の熱だけ。

「……兄さん」

小さく呼ぶ。
もちろん、誰にも聞こえないように。
千景は表情を変えないまま、ほんのわずかに手に力を込める。
それが返事だった。

大丈夫だ、と言われたような気がした。
お前を一人にはしない、と。
そう言葉にすることは許されなくても、熱だけで伝えてくるような、そんな手。

だめだ。
こんなの、だめに決まっている。

人前なのに。
こんなふうに、誰にも見えないところでだけ優しくするなんて。
そのたびに、余計に離れられなくなるのに。

兄妹なのに。誰にも祝福されるわけがない。
まるで、本当に秘め事みたいだ。
その言葉が胸をよぎった瞬間、頬が一気に熱くなる。
そんなふうに思ってしまった自分が、いちばんいけない。

千景はまだ、手を離さない。

周囲のざわめきがようやく戻りはじめ、誰かが瑠璃子をなだめ、誰かが鴇子の顔色を窺う。
薫子が私を睨みつけ、息を呑む気配、少し離れたところにあるのにわかってしまう。
その混乱の中で、千景だけは静かに立っている。

表向きは、東城院家の御曹司。
今日の興行を締めた看板役者。
誰よりも冷静で、誰よりも堂々としている男。

けれどその袖の下では、指先を絡め取ったまま、少しも離そうとしない。

嬉しい。
苦しい。
怖い。

その全部がいっぺんに押し寄せて、胸の奥がどうにかなってしまいそうになる。
ようやく人の輪が少し動き、瑠璃子が下がらされた時、千景の手がゆっくりと離れる。

離れた瞬間、そこだけ空気が冷たくなる。

ほんの少し前まで、確かにあった熱がもうない。
それだけで、どうしようもなく名残惜しかった。
もう一度触れてほしいと思ってしまう自分がいて、そんな自分にぞっとする。
でも、そのぞっとする気持ちすら、もう止められなかった。

千景は誰にも聞こえないくらいの低い声で言う。

「着替えてくる。またあとで」

たったそれだけ。
けれど、それで十分だった。

たった今、人前で何もかもを失ったように見えたのに。
本当に欲しかったものだけは、着物の陰でそっと守られていたのだと、ようやくわかったから。

千穐楽の祝いの声も、花の匂いも、まだそこらじゅうに残っている。
それなのに胸の中には、華やかさとはまるで違う、もっと密やかで、もっと恐ろしく、深い熱だけが残っていた。
誰にも見えない場所で結ばれた、ほんの一瞬の確かさ。
それだけで、今日という日がまるごと別の意味を持ってしまった気がした。
胸が、まだ静かに鳴っていた。