千穐楽の幕が下りても、楽屋の熱はなかなか冷めなかった。
祝辞を述べる声。
笑い声。
花束の匂い。
紅や白粉の名残と、人いきれの混じった空気が、まだ狭い部屋に満ちている。
千景は人に囲まれていた。
東城院家の御曹司として。
東屋の東條千之助として。
『八重垣姫』を大成功に導いた役者として。
その輪の中にいるのが、当然みたいな顔で。
誰かに言葉を返し、誰かの祝辞に頷き、花束を受け取るたびに、また別の誰かが声をかける。
私はその後ろに隠れるように立ちながら、手の中の小さな汗ばみだけが、やけにはっきりとわかった。
ここへ来るまでは、ただ無事に千穐楽が終わればそれでいいと思っていた。
何事もなく幕が下りて、千景が千之助として最後まで舞台に立てたなら、それで十分だと。
けれど今は、そうではない。
瑠璃子が大きな花束を抱えて現れた時、楽屋の空気が少しだけ変わった。
「千之助様。千穐楽、おめでとうございます」
「瑠璃子」
誰の目にも、それは婚約者である後援家の令嬢が、看板役者を祝いに来た、ただそれだけの光景に見えただろう。
家同士の縁を考えれば、むしろ自然なくらいだったのかもしれない。
けれど、その笑みの奥にあるものを知っている。
自分だけに向けられる針のような悪意。
甘い声の裏に潜む冷たさも。
あの地下倉庫へ続く一件を思い出すだけで、指先がひやりとした。
「そうだ。渡さなければならないものがあったんだ」
花束を受け取る前に、千景がそう言った。
その一言に、瑠璃子の目がかすかに揺れる。
袖の内から取り出した何かを、瑠璃子の前へ差し出す。
瑠璃子が微笑み、受け取ろうと手を伸ばすと、受け取る直前に千景の手がぱっと開かれる。
まるでスローモーションのように、カチャン、と音を立てて床に簪が落ちた。
「……千之助様?」
「あの日、『八重垣姫』の大振袖から出てきた。お前のものだな」
千景はその簪を足袋の先で静かに押さえると、その場の空気が止まる。
誰かが息を呑み、誰かが言葉を失う。
そして次の瞬間、もっと驚くことが起きた。
着物の陰で、そっと指先に触れるものがあったのだ。
けれど千景は、顔色ひとつ変えない。
千景の、美しい指先。
誰にも見えないように、伸びてきた指先が、後ろに立つ私の手を探るように触れ、すぐに絡め取る。
ほんのわずかな動きなのに、胸が大きく跳ねた。
うそでしょう、と声に出しそうになる。
こんな、人が大勢いるところで。
瑠璃子も、鴇子も、薫子もいるのに。
その静寂の中で、千景の手だけが私の手を離さない。
目の前で何が起きているのか、信じられない。
祝辞を述べる声。
笑い声。
花束の匂い。
紅や白粉の名残と、人いきれの混じった空気が、まだ狭い部屋に満ちている。
千景は人に囲まれていた。
東城院家の御曹司として。
東屋の東條千之助として。
『八重垣姫』を大成功に導いた役者として。
その輪の中にいるのが、当然みたいな顔で。
誰かに言葉を返し、誰かの祝辞に頷き、花束を受け取るたびに、また別の誰かが声をかける。
私はその後ろに隠れるように立ちながら、手の中の小さな汗ばみだけが、やけにはっきりとわかった。
ここへ来るまでは、ただ無事に千穐楽が終わればそれでいいと思っていた。
何事もなく幕が下りて、千景が千之助として最後まで舞台に立てたなら、それで十分だと。
けれど今は、そうではない。
瑠璃子が大きな花束を抱えて現れた時、楽屋の空気が少しだけ変わった。
「千之助様。千穐楽、おめでとうございます」
「瑠璃子」
誰の目にも、それは婚約者である後援家の令嬢が、看板役者を祝いに来た、ただそれだけの光景に見えただろう。
家同士の縁を考えれば、むしろ自然なくらいだったのかもしれない。
けれど、その笑みの奥にあるものを知っている。
自分だけに向けられる針のような悪意。
甘い声の裏に潜む冷たさも。
あの地下倉庫へ続く一件を思い出すだけで、指先がひやりとした。
「そうだ。渡さなければならないものがあったんだ」
花束を受け取る前に、千景がそう言った。
その一言に、瑠璃子の目がかすかに揺れる。
袖の内から取り出した何かを、瑠璃子の前へ差し出す。
瑠璃子が微笑み、受け取ろうと手を伸ばすと、受け取る直前に千景の手がぱっと開かれる。
まるでスローモーションのように、カチャン、と音を立てて床に簪が落ちた。
「……千之助様?」
「あの日、『八重垣姫』の大振袖から出てきた。お前のものだな」
千景はその簪を足袋の先で静かに押さえると、その場の空気が止まる。
誰かが息を呑み、誰かが言葉を失う。
そして次の瞬間、もっと驚くことが起きた。
着物の陰で、そっと指先に触れるものがあったのだ。
けれど千景は、顔色ひとつ変えない。
千景の、美しい指先。
誰にも見えないように、伸びてきた指先が、後ろに立つ私の手を探るように触れ、すぐに絡め取る。
ほんのわずかな動きなのに、胸が大きく跳ねた。
うそでしょう、と声に出しそうになる。
こんな、人が大勢いるところで。
瑠璃子も、鴇子も、薫子もいるのに。
その静寂の中で、千景の手だけが私の手を離さない。
目の前で何が起きているのか、信じられない。



