梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

興行の間、必ず舞台へ行くようになった。

もちろん、雑用という仕事があるから。
けれど、そんなものはもう建前でしかない。

ほんの一時でも、千景の視界に入りたい。
廊下ですれ違う、その一瞬だけでも。
たったそれだけのことが、どうしようもなく愛おしかった。

言葉を交わすことはない。
ただ、視線だけが交わる。

人目を避けるように。
迷いながらも、大振袖の裾の陰で、そっと触れてくる指先。
細く長く、しなやかな指。
なのに、触れられた瞬間だけ、はっきりと男の人の熱を感じてしまう。

拵えを済ませたこの人は、もう半分、舞台の上の人だ。
これから女方として客の前に立つはずなのに、その手だけは確かに私を求めてくれる。
それが嬉しくて、苦しくて、毎日少しずつ心が削られていくのに、それでもそばにいたい。

公演の終わりには、千景が脱いだ衣装を受け取る。
その時にお茶を出すのが日課になった。

「兄さん、おつかれさまで……わっ」
「危ないっ」

袴の裾を踏んでしまい、体がぐらりと傾く。
ぱしゃ、と畳の上にお茶がこぼれ、湯呑が乾いた音を立てて転がった。
次の瞬間には、拵えのままの千景に抱き留められていた。

「あ、あの……兄さん、お茶が」
「大丈夫だ。かかっていない。怪我は?」
「……なんも……」

いつも通りの声色。
けれど、舞台のあとのほんの少し掠れた声が、かえって艶っぽさをまとって耳元に落ちてくる。

会話が終わっても、受け止める腕はすぐには緩まないまま。
時折わずかに力がこもるたび、背筋を撫でられるたびに、身体がぴくりと反応してしまう。
気づかれたくないのに、こういう時ばかり身体は正直で嫌になる。

「新しいお茶は……」
「悪い。もう少しだけ、このままでいてもいいか?」

普段から御曹司として過酷な稽古をしているとはいえ、すべての衣装を着ると三十キロにもなる。
一度の公演は三時間を優に超える。
しかも、まだ興行は半ばを過ぎたくらい。
疲れていないはずがない。

そう思えば、振りほどくことなんてできなかった。

「弥生」
「はい」
「千景、と呼んでほしい」
「え?」
「二人きりの時だけでいい」

その一言に、胸の奥が強く鳴る。

それだけは。
それだけは、だめだ。

口にしてしまったら、歯止めが利かなくなる気がした。
それをわかっているから、頑なに『兄さん』と呼んできた。
まるで、そこに線を引くみたいに。
ここから先へは行かないのだと、自分に言い聞かせるみたいに。

何もかも捨てて、名前で呼び合えたなら——
そんな思いが過るたび、いつか薫子に言われた言葉が脳裏に響く。

『御曹司であるお兄様との未来など、夢見ないことね』

冷たく、はっきりと。
夢を見るなと、何度でも突きつけるように。

「っ……それだけは……あきまへん」
「すまない。無理を言ったな」

千景の声は柔らかかった。
責めるでもなく、拗ねるでもなく、ただ私の躊躇いをすべて受け止めるような声音。
その優しさが、かえってつらい。

ゆっくりと、身体が離れる。
二人の体温に名残惜しさだけが残る。
鳴り止まない胸の鼓動すら、心地よくて、離れがたい。

決して目を合わせてはいけない。
今、この美しい人と目を合わせたら、きっと名前を呼ぶだけでは済まなくなる。

自分がどんな顔をしているのか。
そして千景が、どんな顔で自分を見ているのか。
痛いほどわかっているから。