梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

聞きたい。聞いてはいけない。
この先の言葉を聞いたら、もう戻れなくなる。

「お前を想って、俺は『八重垣姫』を演じている」

それでも、目を逸らせなかった。
逸らしたところで、胸の中はもう逃げ場をなくしている。

「弥生が好きだ」

息が止まった。呼吸すら忘れてしまうほどに。

「ずっと好きだった」

耳の奥で、何かが大きく鳴った気がした。
ずっと。ずっと前から。
私だけが、気づかないふりをしていたのだろうか。
いや、違う。お互いだ。
気づいていたのに、認めないようにしていただけ。

「でも……うちらは、腹違いの兄妹で……」
「ああ」
「そんなん、許されるわけあらしまへん」
「わかっている」

千景の声は驚くほど静かだった。
けれど静かな分だけ、揺るがない。
言い聞かせではなく、全部わかった上でここに立っている声。

「それでも、もうただの妹とは見られないところまで来てしまった」

重なった手に、いつの間にか指が絡む。
もう片方の手は、壊れ物に触れるみたいに、私の頬へそっと添えられた。
あたたかい。
その熱が、余計に苦しい。
嬉しいはずなのに、泣きそうになるのはどうしてだろう。

「これ以上を求めるつもりはない」
「兄さん……」
「けれど、せめてお前に好きな男ができるその日までは、そばにいたい」

そんなことを言われたら。
そんな目で見つめられたら。
断れるはずがない。

この人以上に、好きになれる人なんて、現れる気がしないのに。
嬉しくて、胸が詰まって、苦しくて、どうしていいのかわからなくなる。
いっそもっと酷い言い方をしてくれた方が、よほど楽だった。
こんなふうに、逃げ道まで残したまま優しくされる方が、胸が苦しくなるほど切ない。

ずっと見てきた。
稽古に打ちのめされても立ち上がる眼差しも。
舞台の上で何者かになろうとする姿も。
役者としての顔も、御曹司としての顔も。

「……嫌なら、今すぐにでもこの手を振りほどいて構わない」

今、この人は、そのどれでもない顔で私を見ている。
東條千之助ではなく。
東城院家の御曹司でもなく。
ただの、千景として。

「兄さん……それは、いけずです」
「いけず?」
「そないな言い方されたら……断れるわけ、あらしまへん」

かすかに笑う気配がした。
視線を落としているのに、千景の表情がやわらいだのがわかった。

「弥生」
「……はい」
「お前、本当に気づいていなかったのか」
「何を、です」
「京言葉になる時、お前は本音を隠せていない」

その瞬間、顔が一気に熱くなる。
耳まで熱い。たぶん今、ひどく真っ赤になっている。

「な……っ、そないなこと……」
「ほら、今もそうだ」

耐えきれずに顔を上げると、千景は少しだけ楽しそうに、それでもひどく優しい目で私を見ていた。
見透かされていた恥ずかしさと、それでも受け止めてもらった安堵が、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざる。

「心配しなくていい。無理強いはしない」
「……兄さん」
「ただ、これだけは許してほしい」

千景はそう言って、私の手をすくい上げる。
そして、ほんの一瞬だけためらったあと、指先に唇を落とした。

かすかな熱が触れた場所から、じわじわと痺れが広がっていく。
その熱はいつまでも消えず、胸の奥までまっすぐ落ちて、焼きつくように痕を残す。
たったそれだけなのに、もう二度と何も知らなかった頃の自分には戻れなくなる気がした。