舞台が終わったあと。
人の流れが絶えず行き交うロビーの隅で、ただ落ち着かない気持ちを抱えたまま、客たちの後ろ姿をぼんやり見送っていた。
衣装の片付けがあるけれど、今日ばかりは帰った方がいい。そう思うのに、足が動かない。
やがて、いつも通りに劇場の者が近づいてきて、私に声をかける。
「弥生さん。千之助さんがお着替えに入られました」
「……はい」
やっぱり、と思った。
今日の舞台が終わったら、絶対に呼ばれる。
そんな気が、最初からしていた。
「弥生です。失礼します」
襖を開けると、そこにはもう鬘を外し、白塗りも落とした千景がいた。
いつもの千景。
なのに、さっきまで舞台の上で見ていた面影が、まだその顔に薄く残っている気がした。
役の熱が、まだ完全には引いていない。
私の方だけが勝手に苦しいのではなく、この部屋には舞台の余熱そのものが残っているようだった。
「今日の舞台はどうだった」
いつもと変わらない問いかけ。
けれど、その一言に胸の奥がひどく揺れる。
「……とても、ようございました」
「ふっ。いつもその答えだな」
それだけなわけがない。
言いたいことは山ほどある。
舞台の上の一瞬一瞬を、どれほど美しいと思ったか。
日を重ねるごとに、艶やかになる『八重垣姫』に幾度となく目を奪われたか。
でも、今ここで口を開けば、言ってはいけないことまで零れてしまいそうで、口を噤む。
綺麗でした、だけでは足りない。
好きです、まで口に出してしまいそうで怖かった。
「衣装、ありがとう。助かった」
千景が先にそう言った。
「そないな……うちが任されていたことですから」
「違う」
思わず袴の裾を握りしめる。
その手に、千景の手がそっと重なった。
指先に込めていた力が、触れられたところからゆっくりほどけていく。
そんなふうに触れられたら、強がっていたものまでふわりとほどけてしまう。
「衣装なんて、どうでもよかった」
「兄さん……」
「ただ、お前が心配だった」
心臓が、痛いくらいに跳ねた。
「お前が戻らないと、舞台に立てる気がしなかった」
「それは……」
「俺の『八重垣姫』を美しいと言ったな?」
「はい……」
「あれは、お前だ」
「え?」
人の流れが絶えず行き交うロビーの隅で、ただ落ち着かない気持ちを抱えたまま、客たちの後ろ姿をぼんやり見送っていた。
衣装の片付けがあるけれど、今日ばかりは帰った方がいい。そう思うのに、足が動かない。
やがて、いつも通りに劇場の者が近づいてきて、私に声をかける。
「弥生さん。千之助さんがお着替えに入られました」
「……はい」
やっぱり、と思った。
今日の舞台が終わったら、絶対に呼ばれる。
そんな気が、最初からしていた。
「弥生です。失礼します」
襖を開けると、そこにはもう鬘を外し、白塗りも落とした千景がいた。
いつもの千景。
なのに、さっきまで舞台の上で見ていた面影が、まだその顔に薄く残っている気がした。
役の熱が、まだ完全には引いていない。
私の方だけが勝手に苦しいのではなく、この部屋には舞台の余熱そのものが残っているようだった。
「今日の舞台はどうだった」
いつもと変わらない問いかけ。
けれど、その一言に胸の奥がひどく揺れる。
「……とても、ようございました」
「ふっ。いつもその答えだな」
それだけなわけがない。
言いたいことは山ほどある。
舞台の上の一瞬一瞬を、どれほど美しいと思ったか。
日を重ねるごとに、艶やかになる『八重垣姫』に幾度となく目を奪われたか。
でも、今ここで口を開けば、言ってはいけないことまで零れてしまいそうで、口を噤む。
綺麗でした、だけでは足りない。
好きです、まで口に出してしまいそうで怖かった。
「衣装、ありがとう。助かった」
千景が先にそう言った。
「そないな……うちが任されていたことですから」
「違う」
思わず袴の裾を握りしめる。
その手に、千景の手がそっと重なった。
指先に込めていた力が、触れられたところからゆっくりほどけていく。
そんなふうに触れられたら、強がっていたものまでふわりとほどけてしまう。
「衣装なんて、どうでもよかった」
「兄さん……」
「ただ、お前が心配だった」
心臓が、痛いくらいに跳ねた。
「お前が戻らないと、舞台に立てる気がしなかった」
「それは……」
「俺の『八重垣姫』を美しいと言ったな?」
「はい……」
「あれは、お前だ」
「え?」



