耳を澄ます。
遠くから足音が近づいてくる。
何度も聞いてきた足音。
摺り足のわずかな癖も、六方を踏む時の力の乗せ方も、全部覚えている。
舞台では隠す音なのに、廊下ではどうしても残るその人だけの歩き方。
胸が、どくんと大きく鳴った。
「弥生!!どこだ!!」
扉の向こうから響いた声に、思わず扉へ身を寄せる。
「兄さん……!」
「弥生!いるのか!」
「ここです!ここ……!」
がた、と外から乱暴に鍵が外される音がすると、すぐに扉が勢いよく開く。
差し込んだ光があまりに眩しくて、思わず目を閉じた。
そのまま強く引き寄せられ、気づけば温かな腕の中にいた。
「よかった……無事で」
「兄さん……」
息が上がりながら、耳元で落ちた声から、安堵の様子がわかる。
千景の顔はすでに白く塗られ、鬘も被っている。
紅も引かれ、あとは私が見つけた大振袖を着るだけの姿だった。
もうほとんど女方として出来上がっているのに、その腕の強さは少しも女のものではなかった。
抱き締める力は痛いほどで、肩に回された腕がかすかに震えているのがわかる。
怖かったのは私のはずなのに、震えているのは千景の方でもあった。
助け出された安心から、足元の感覚がまだ戻らない。
それなのに、この腕の中から離れたくないと思ってしまう自分がいた。
怖さで強張っていた体が、その腕の中にいるあいだだけはほどけていく。
ほどけてはいけないのに、安心してしまう。
だめだ、と思うより先に、あたたかい、が来る。
それがなおさら苦しかった。
「衣装……見つけました」
どうにかそう言うと、千景はようやく腕を緩めた。
けれど完全には離れず、私の顔を確かめるように覗き込んでくる。
白く塗られた顔の奥の目だけが、いつもの千景のままだった。
「どこも怪我はないな」
「はい。私は、大丈夫です。それより舞台が……」
「ああ。すまない。衣装を持ってきてくれるか」
「はい」
楽屋へ戻る頃には、千景の姿が見えないことで周囲はちょっとした騒ぎになっていた。
誰かが呼びに走り、誰かが支度を急がせる。
黒衣が道を空け、鬘方が舌打ちまじりに時間を数える。
張り詰めた空気の中で、大振袖を広げた。
その時だった。
カチリ、と小さな音がして、袖の間から一本の簪が畳に転がり落ちた。
「?……これ」
拾い上げて目を凝らす。
どこかで見覚えのある細工。
細く繊細な金の細工の先に、何かの紋が入っている。
「どうした」
拵えを終えた千景が、私の手元を見て手を伸ばす。
簪を受け取った途端、その端正な顔がわずかに歪む。
「……綾小路の家紋だ」
「え……」
綾小路。
瑠璃子さんの家の——
そこまで考えたところで、楽屋の外から声が飛ぶ。
「千之助!お時間です!」
千景は簪を握ったまま目を伏せ、一度だけ深く息を吸った。
怒りを飲み込むような呼吸。
「この話は後だ」
「……はい。いってらっしゃいませ」
千景は短く息を吐きながら、ゆっくり目を閉じる。
次に目が開かれた時には、もうそこには千之助の顔になり、一瞬で目の焦点が変わる。
私を抱き締めていた人と、舞台へ出る人が、同じ一人の中で切り替わった瞬間。
東城院家の御曹司でもない。
舞台に立つ歌舞伎役者、東條千之助だった。
花道へ向かう背中には、迷いがひとつも見えなかった。
舞台袖から、その背中を見送る。
何度も見てきたはずの姿。
稽古も、舞台も、この五年、ずっと近くで見てきた。
それなのに、今日は何もかも違って見える。
白く塗られた横顔。
紅を引いた唇。
大振袖の裾を捌く指先。
一歩ごとに乗る重心。
張った声の奥にある熱。
そのどれもが美しくて、苦しくて、胸の奥を掻き乱してくる。
あんな姿を見せられて、何とも思わずにいられるはずがない。
さっき抱き締められた腕の感触まで思い出して、自分の身体を抱き寄せる。
舞台の上の『八重垣姫』と、扉を開けてくれた千景とが、頭の中で重なって離れない。
「あかん……こんなん……兄妹やのに……止められへん……」
いつからだろう?もうそんなこともわからないほどに。
小さく呟いた声は、自分でも驚くほど震えていた。
遠くから足音が近づいてくる。
何度も聞いてきた足音。
摺り足のわずかな癖も、六方を踏む時の力の乗せ方も、全部覚えている。
舞台では隠す音なのに、廊下ではどうしても残るその人だけの歩き方。
胸が、どくんと大きく鳴った。
「弥生!!どこだ!!」
扉の向こうから響いた声に、思わず扉へ身を寄せる。
「兄さん……!」
「弥生!いるのか!」
「ここです!ここ……!」
がた、と外から乱暴に鍵が外される音がすると、すぐに扉が勢いよく開く。
差し込んだ光があまりに眩しくて、思わず目を閉じた。
そのまま強く引き寄せられ、気づけば温かな腕の中にいた。
「よかった……無事で」
「兄さん……」
息が上がりながら、耳元で落ちた声から、安堵の様子がわかる。
千景の顔はすでに白く塗られ、鬘も被っている。
紅も引かれ、あとは私が見つけた大振袖を着るだけの姿だった。
もうほとんど女方として出来上がっているのに、その腕の強さは少しも女のものではなかった。
抱き締める力は痛いほどで、肩に回された腕がかすかに震えているのがわかる。
怖かったのは私のはずなのに、震えているのは千景の方でもあった。
助け出された安心から、足元の感覚がまだ戻らない。
それなのに、この腕の中から離れたくないと思ってしまう自分がいた。
怖さで強張っていた体が、その腕の中にいるあいだだけはほどけていく。
ほどけてはいけないのに、安心してしまう。
だめだ、と思うより先に、あたたかい、が来る。
それがなおさら苦しかった。
「衣装……見つけました」
どうにかそう言うと、千景はようやく腕を緩めた。
けれど完全には離れず、私の顔を確かめるように覗き込んでくる。
白く塗られた顔の奥の目だけが、いつもの千景のままだった。
「どこも怪我はないな」
「はい。私は、大丈夫です。それより舞台が……」
「ああ。すまない。衣装を持ってきてくれるか」
「はい」
楽屋へ戻る頃には、千景の姿が見えないことで周囲はちょっとした騒ぎになっていた。
誰かが呼びに走り、誰かが支度を急がせる。
黒衣が道を空け、鬘方が舌打ちまじりに時間を数える。
張り詰めた空気の中で、大振袖を広げた。
その時だった。
カチリ、と小さな音がして、袖の間から一本の簪が畳に転がり落ちた。
「?……これ」
拾い上げて目を凝らす。
どこかで見覚えのある細工。
細く繊細な金の細工の先に、何かの紋が入っている。
「どうした」
拵えを終えた千景が、私の手元を見て手を伸ばす。
簪を受け取った途端、その端正な顔がわずかに歪む。
「……綾小路の家紋だ」
「え……」
綾小路。
瑠璃子さんの家の——
そこまで考えたところで、楽屋の外から声が飛ぶ。
「千之助!お時間です!」
千景は簪を握ったまま目を伏せ、一度だけ深く息を吸った。
怒りを飲み込むような呼吸。
「この話は後だ」
「……はい。いってらっしゃいませ」
千景は短く息を吐きながら、ゆっくり目を閉じる。
次に目が開かれた時には、もうそこには千之助の顔になり、一瞬で目の焦点が変わる。
私を抱き締めていた人と、舞台へ出る人が、同じ一人の中で切り替わった瞬間。
東城院家の御曹司でもない。
舞台に立つ歌舞伎役者、東條千之助だった。
花道へ向かう背中には、迷いがひとつも見えなかった。
舞台袖から、その背中を見送る。
何度も見てきたはずの姿。
稽古も、舞台も、この五年、ずっと近くで見てきた。
それなのに、今日は何もかも違って見える。
白く塗られた横顔。
紅を引いた唇。
大振袖の裾を捌く指先。
一歩ごとに乗る重心。
張った声の奥にある熱。
そのどれもが美しくて、苦しくて、胸の奥を掻き乱してくる。
あんな姿を見せられて、何とも思わずにいられるはずがない。
さっき抱き締められた腕の感触まで思い出して、自分の身体を抱き寄せる。
舞台の上の『八重垣姫』と、扉を開けてくれた千景とが、頭の中で重なって離れない。
「あかん……こんなん……兄妹やのに……止められへん……」
いつからだろう?もうそんなこともわからないほどに。
小さく呟いた声は、自分でも驚くほど震えていた。



