梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

衣装部屋。
支度部屋。
小道具置き場。
鬘箱の並ぶ隅。
使われていない脇の廊下。
思いつく限りの場所を探す。

ない……
どこにも、ない。

掛け違えたかと、同じ場所まで二度見に行く。
箱の札も確かめる。
袖の中まで覗く。
それでもない。

足が速くなり、呼吸まで浅くなる。
見つからなければ、千景の舞台が壊れる。
その焦りの中で、ふと昨日の瑠璃子の声が脳裏をよぎった。

『地下倉庫には近づかない方がよろしくてよ』

まさか、そんなはず……
でも、今の劇場でまだ探していない場所があるとしたら、そこだけ。
あの若い男の顔も、瑠璃子の柔らかすぎる笑みも、頭の隅でいやな形に結びつく。

人気のない裏の階段を下りる。
一段下りるごとに、空気が変わる。
ひんやりと重く、湿った冷たさが足首から這い上がってくる。
昼間のはずなのに、光が届かないせいで薄暗い。

地下倉庫。
普段は滅多に使われない場所。
衣装方も、よほどのことがない限り近づかない。
そして、幽霊が出ると噂される場所。

喉が渇き、指先が冷たくなる。
耳の奥では、自分の脈の音だけが妙に大きい。
それでも、ここで引き返すわけにはいかなかった。

もしここにあるのに、引き返してしまったら、千景の舞台に穴があく。
そう思えば、怖いとか苦手とか言っていられない。

「……大丈夫、大丈夫」

劇場だ。しかも歌舞伎の。
古い建物なら噂話くらい、どこにでもある。
そう言い聞かせるように呟き、扉へ手をかける。

ぎい、と嫌な音を立てて、倉庫の扉が開く。
中は薄暗く、積まれた木箱や古い衣装箱が影を作っている。
かびた匂いと、長く閉ざされていた空気の冷たさが肌にまとわりつく。
どこか遠くで、水でも落ちているのか、ぽつりと小さな音がした。

一歩、また一歩と足を進める。
聞きなれたはずの自分の足音すら、知らない人のものみたいに聞こえた。

奥の衣装掛けに、見覚えのある、艶やかな色がかすかに見え、思わず駆け寄る。

「……あった……!」

間違いない。『八重垣姫』の大振袖。
安堵で力が抜けそうになりながらも、慌ててそれを抱え上げる。
重みのある布が腕に落ちてきて、ようやく現実に触れた気がした。

自分の手にこの衣装が戻り、千景の匂いを思い出す。
舞台の前、近くに立った時にだけ、かすかに移る白粉と香の混じった匂い。
普段なら絶対しないのに、振袖に顔を埋めた。

まるで、愛しい人を抱き締めたような錯覚がした。

見つけた。
これで間に合う。
千景の舞台に間に合う。

そう思って振り返った、次の瞬間。
ばたん、と大きな音を立てて扉が閉まった。

「……え」

次いで、がちゃり、と外から鍵のかかる音がして、血の気が引く。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。

「待って……!」

衣装を抱えたまま扉へ駆け寄り、必死に叩く。

「開けて!誰か、開けてください!」

返事はない。
地下倉庫の冷えた空気が、じわじわと背中を這い上がってくる。
暗い。静かすぎる。

『あそこ、出るんですって』

瑠璃子の声が、耳の奥で響き、喉がひくりと震えた。
衣擦れの音ひとつしないはずなのに、何かがどこかで息を潜めているような気配だけが濃くなる。
気のせいだとわかっているのに、視界の端で影が動いた気がして、何度も振り返りそうになる。

「誰か、開けて……!」

せっかく衣装が見つかったのに。
探し始めてから、もう一時間は経っている気がする。
千景に届けなくてはならないのに。
幕が上がってしまう。呼び出しがかかってしまう。そう思うほど、頭の中が真っ白になった。

情けない。
幽霊が出るだなんて、ただの噂に怯えて、視界を滲ませて、こんなふうに声まで震えてしまうなんて。
扉を叩く手に力が入らない。
指先は冷えきっていて、何度拳を打ちつけても、頼りない音しか返ってこなかった。

「誰か……っ、誰、か……お願いっ……」

違う。
本当は、誰でもいいわけじゃない。
呼びたい人は、最初から決まっている。
困った時、怖い時、こんなにも真っ先に浮かぶ人は一人しかいない。

「兄さん……」

そう呟いたとき、扉の向こうで何かが動く音がした。