返事もそこそこに羽織を掴み、劇場へ向かう。
朝の劇場は、昨日とは別の意味で張りつめていた。
大道具の出入りも、衣装方の足音も、どこかいつもより尖っている。
板の鳴る音まで、ぴりぴりして聞こえた。
廊下の先の楽屋まわりには人が集まり、低い声で何かを言い合っていた。
まだ開幕前だというのに、もう幕切れの直前みたいなひりついた空気。
「あの、すいません。通してください」
人をかき分けるように駆け寄ると、視線が一斉に向けられる。
その視線の重さに、一瞬だけ足が止まりそうになる。
大道具方の男が、妙に落ち着いた顔で口を開いた。
「大振袖の管理は、確か弥生さんが担当でしたよね」
「……はい。でも、昨日きちんと受け取って……」
「そうですかね。昨日、弥生さんと千之助さん、何か揉めてませんでしたか?」
男は、わざとらしく首を傾げる。
ざわ、と空気が動いた気がして、息を呑む。
「揉めてなんか」
「まあ!」
そこへ、薫子と一緒にやってきた瑠璃子が声を上げた。
今日も艶やかな振袖姿で、けれどその顔には、いかにも驚いたような色が浮かんでいる。
白々しいほどではない。だからこそ、余計にたちが悪かった。
「弥生さん、ひょっとして……千之助様に嫌がらせを?」
「違います!」
「でも、昨日はあんなに取り乱していらしたではないの」
喉がひくりと震える。
やっぱりあの場を見られていた。
そして、わかったうえでこの場で声を上げている。
返す言葉を必死に探していると、瑠璃子の隣に立つ薫子が声をあげる。
「弥生さん。とんでもないことをしてくれたわね」
「そんな、薫子さん……」
「昨夜は部屋に籠もって様子がおかしかったわ。今朝だって、いつもよりずいぶん遅く来たもの」
薫子の発言で、決定的になったこの場の雰囲気に言葉を失う。
遅く来たのは、自分の弱さのせいだ。
昨夜のことが苦しくて、劇場に行くのが怖くて、ほんの少しだけ足が止まった。
でも、それとこれとは違う。
「私は、やっていません」
ようやくそれだけ言う。
けれど、口から出た自分の声は思った以上に細くて頼りなかった。
周囲の目が疑わしげに揺れる。
味方は、この世界の、どこにもいないように思えた。
誰もが、もう半分は信じてしまっている顔をしている。
私がやった、とまでは言わなくても、やりかねない何かがあったのだろうと。
そういう空気が辺り一面を満たしていく。
「弥生はそんなことをしない」
よく通る声が空気を断ち切った。
振り向くと、支度の途中の千景が立っていた。
まだ白塗りには入っていない、眉潰しをして、女方の下ごしらえだけを済ませた襦袢姿で、その表情だけはもう舞台前の役者のものだった。
張りつめて、冴えて、迷いがない。
「でも、お兄様っ!」
「彼女を疑うな」
薫子の言葉に、千景が一歩前に出る。
「弥生が『八重垣姫』の大振袖に手をつける理由がない」
「でも千之助様、昨日——」
「昨日のことと、今日の件は関係ない」
瑠璃子の声を、千景は冷たく遮った。
その目の鋭さに、さすがの瑠璃子も一瞬だけ口をつぐむ。
だが、楽屋の奥から別の者が駆け寄ってくる。
「千之助さん、お時間が」
「……」
千景の表情がわずかに歪む。
時間も舞台も待ってくれない。
『八重垣姫』役である千景が支度を止めるわけにはいかない。
拍子木は待たないし、幕も人の都合では上がらない。
それは、誰より千景自身がわかっている。
その焦りを押し殺したままここに立っているのだと思うと、余計に胸が痛む。
千景のその顔を見て、ぐっと袴の折り目を握る。
「兄さんは準備してください。私が必ず探してきます」
千景が、はっと目を向ける。
「弥生」
「大丈夫です。昨日、私が最後に見た場所もありますから」
嘘だった。
そんな都合よく心当たりがあるわけではない。
けれど、ここで自分が動かなければ、千景は舞台へ向かえない。
それだけは絶対に嫌だった。
自分のせいだと見られたまま、千景の出端を狂わせるなんて、そんなことだけはさせたくない。
「必ず、見つけます」
そう言い切ると、その場を離れた。
朝の劇場は、昨日とは別の意味で張りつめていた。
大道具の出入りも、衣装方の足音も、どこかいつもより尖っている。
板の鳴る音まで、ぴりぴりして聞こえた。
廊下の先の楽屋まわりには人が集まり、低い声で何かを言い合っていた。
まだ開幕前だというのに、もう幕切れの直前みたいなひりついた空気。
「あの、すいません。通してください」
人をかき分けるように駆け寄ると、視線が一斉に向けられる。
その視線の重さに、一瞬だけ足が止まりそうになる。
大道具方の男が、妙に落ち着いた顔で口を開いた。
「大振袖の管理は、確か弥生さんが担当でしたよね」
「……はい。でも、昨日きちんと受け取って……」
「そうですかね。昨日、弥生さんと千之助さん、何か揉めてませんでしたか?」
男は、わざとらしく首を傾げる。
ざわ、と空気が動いた気がして、息を呑む。
「揉めてなんか」
「まあ!」
そこへ、薫子と一緒にやってきた瑠璃子が声を上げた。
今日も艶やかな振袖姿で、けれどその顔には、いかにも驚いたような色が浮かんでいる。
白々しいほどではない。だからこそ、余計にたちが悪かった。
「弥生さん、ひょっとして……千之助様に嫌がらせを?」
「違います!」
「でも、昨日はあんなに取り乱していらしたではないの」
喉がひくりと震える。
やっぱりあの場を見られていた。
そして、わかったうえでこの場で声を上げている。
返す言葉を必死に探していると、瑠璃子の隣に立つ薫子が声をあげる。
「弥生さん。とんでもないことをしてくれたわね」
「そんな、薫子さん……」
「昨夜は部屋に籠もって様子がおかしかったわ。今朝だって、いつもよりずいぶん遅く来たもの」
薫子の発言で、決定的になったこの場の雰囲気に言葉を失う。
遅く来たのは、自分の弱さのせいだ。
昨夜のことが苦しくて、劇場に行くのが怖くて、ほんの少しだけ足が止まった。
でも、それとこれとは違う。
「私は、やっていません」
ようやくそれだけ言う。
けれど、口から出た自分の声は思った以上に細くて頼りなかった。
周囲の目が疑わしげに揺れる。
味方は、この世界の、どこにもいないように思えた。
誰もが、もう半分は信じてしまっている顔をしている。
私がやった、とまでは言わなくても、やりかねない何かがあったのだろうと。
そういう空気が辺り一面を満たしていく。
「弥生はそんなことをしない」
よく通る声が空気を断ち切った。
振り向くと、支度の途中の千景が立っていた。
まだ白塗りには入っていない、眉潰しをして、女方の下ごしらえだけを済ませた襦袢姿で、その表情だけはもう舞台前の役者のものだった。
張りつめて、冴えて、迷いがない。
「でも、お兄様っ!」
「彼女を疑うな」
薫子の言葉に、千景が一歩前に出る。
「弥生が『八重垣姫』の大振袖に手をつける理由がない」
「でも千之助様、昨日——」
「昨日のことと、今日の件は関係ない」
瑠璃子の声を、千景は冷たく遮った。
その目の鋭さに、さすがの瑠璃子も一瞬だけ口をつぐむ。
だが、楽屋の奥から別の者が駆け寄ってくる。
「千之助さん、お時間が」
「……」
千景の表情がわずかに歪む。
時間も舞台も待ってくれない。
『八重垣姫』役である千景が支度を止めるわけにはいかない。
拍子木は待たないし、幕も人の都合では上がらない。
それは、誰より千景自身がわかっている。
その焦りを押し殺したままここに立っているのだと思うと、余計に胸が痛む。
千景のその顔を見て、ぐっと袴の折り目を握る。
「兄さんは準備してください。私が必ず探してきます」
千景が、はっと目を向ける。
「弥生」
「大丈夫です。昨日、私が最後に見た場所もありますから」
嘘だった。
そんな都合よく心当たりがあるわけではない。
けれど、ここで自分が動かなければ、千景は舞台へ向かえない。
それだけは絶対に嫌だった。
自分のせいだと見られたまま、千景の出端を狂わせるなんて、そんなことだけはさせたくない。
「必ず、見つけます」
そう言い切ると、その場を離れた。



