梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

歩き始めると、楽屋口の着到板にピンを刺す千景の姿が。
今日はもう支度に入るのか、軽く羽織を引っかけただけの姿。
私に気が付き、歩みを速め、近付いてくる。

「弥生。昨日は——」

呼ばれた声に、胸がぎゅっと縮んだ。
見てはいけないのに、顔を見た瞬間、だめだった。

昨夜、会食に来いと言ってくれたこと。
瑠璃子の声。先ほどの言葉。
見ていないはずの夜を、勝手に想像して傷ついてしまった自分。

昨晩、一緒に会食にいっていたら、何か変わっていたのだろうか。
何も確かめていないのに、一人で惨めになっていること。
全部が一気にこみあげてきて、視界が滲む。

「弥生?」
「す、すんまへん……」

ぽろりと、涙が落ちた。
自分でも止められない。
千景の表情が、一瞬で変わる。

「どうした。何があった」
「何でも、あらしまへん」
「そんな顔で、何でもないはずがないだろう」
「本当に……っ」

喉の奥が詰まる。
ここで立ち止まったらだめだ。
何を言ってしまうかわからない。
瑠璃子に何を言われたのか。何を想像して、何に傷ついたのか。
そんなこと、口にできるはずがない。

「お仕事がありますのでっ……」
「弥生!」

半ば叫ぶようにそう言って、その場を走り去る。
背後で千景が呼ぶけれど、振り返れなかった。
振り返ったら最後、きっとみっともなく、泣きながら縋ってしまう。

角を曲がったところで、壁にもたれるようにしゃがみ込み、息を整える。

「……っふ……うっ……」

涙を拭っても、次から次へと零れてきてどうしようもない。
息を吸うたび胸が痛くて、うまく呼吸が入らなかった。

廊下の奥で衣擦れの音と、覚えのある甘い香りがした。
そっと視線を向けると、柱の陰に瑠璃子の振袖の裾が見えた気がした。

泣いているところを見られたかもしれない。
昨夜から今朝にかけて、自分の心がどれほど揺れたか。
どれほど勝手に傷つき、どれほど情けなく取り乱したか。
それを確かめるように、ずっと見られていたのだとしたら——。

ぞっとするほど冷たいものが、背中を走る。

瑠璃子は姿を見せないまま、ただ気配だけを残していた。
まるで、私が崩れるのを、じっと待っているように。
あと少しで壊れるとわかっているものを、わざと最後まで見届けようとしているみたいに。

膝の上で震える手をぎゅっと握った。
泣いている場合ではない。
ここで崩れたままでは、きっと瑠璃子の思う通りになる。
そう思うのに、涙だけがどうしても止まらなかった。