梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

翌朝。
いつも通り劇場へ向かう。

昨夜のことを思い出さないように、ただ無心で手を動かす。
茶の支度をして、小物を運んで、呼ばれれば返事をする。
そうしていれば、余計なことを考えずに済む。
胸の奥に沈んだものを、見ないふりでやり過ごせる。

そう思っていたのに。

「おはよう、弥生さん」

その場にいる瑠璃子は昨日と同じ振袖——に見えた。
今日はその上に薄い羽織だけを重ねている。
髪はきちんと整っているのに、どこか一か所だけ、わざとらしいほどではない乱れがある。
夜更けまで人に会っていた、と言われれば、そう見えなくもない程度の崩れ方。

「おはようございます」
「昨日は本当に遅くなってしまって」

いつもの甘い声……とは少し違う、気怠さを孕んだ声。
瑠璃子は口元に手を添え、小さく欠伸をしてみせてから、ほう、と息を吐いた。

「こういうお付き合いには、まだあまり慣れておりませんの。今朝も少し寝不足で」

その言葉に、なにも返事をしなかった。

寝不足。
遅くなった。
お付き合い。

わざわざ口に出さなくても、そう聞こえるように言っているのだとわかった。
言い切らず、想像だけを押しつけてくる。瑠璃子はそういう話し方をする。

「でも、千之助様ほどのお立場になると、いろいろございますものね」
「……私には、よくわからず」
「ええ。ご本人だけでなく、周囲も気を遣いますの。昨夜もずいぶん遅くまで」

瑠璃子はそこで言葉を切り、ふっと笑った。

「あぁ、弥生さんは花街の出、ですものね。こういったことには慣れてらっしゃるのかしら?」
「は……?それ、どういう……」

その時、廊下の向こうから大道具方の若い男がやって来た。
瑠璃子の姿を見た瞬間、男の目がわずかに泳ぐ。
けれどすぐに整え直し、深く頭を下げる。

二人とも声をかけるでもなく、視線を交わすだけ。
やわらかすぎるほどに。

その背中を、瑠璃子は一瞬だけ意味ありげに見送った。
どうしても胸の奥に、小さな引っかかりが生まれる。
けれど、それが何なのか考える前に、別の痛みが押し寄せてきた。

今朝、千景の姿を屋敷で見なかった。
楽屋口の着到板にも、『東條千之助』の名のところに赤いピンは刺されていなかった。

昨夜は遅くまで——瑠璃子と……?
もしくは、つい今しがたまで一緒だった……?

その先を、自分で考えてしまう。
考えたくもないのに、勝手に頭に浮かんでしまう。
見たわけでもないのに、知らないはずの夜が、ありありと形を持ちはじめる。
その想像に傷ついていることが、たまらなく惨めだった。

「弥生さん」

瑠璃子が、少し首を傾げながら、顔を覗き込んでくる。

「お顔色が悪いわ。もしかして、昨夜あまりお休みになれなかった?」
「……いえ、ご心配いただくほどでは」
「まあ。いけませんわね。気にしすぎると、お肌に悪いですわよ」

何を、とは言わない。
言わないくせに、全部わかっていて言ってくる。
ここで顔を上げれば、たぶん何かが滲む。
だからただ、声だけを整える。

「失礼します」
「ええ。あまりご無理をなさらないで」

振り向く背中にかかるその声が、ひどく優しげで、だからこそ気持ち悪い。
心配しているように聞こえるぶん、余計に逃げ場がない。