梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

舞台が終わり、客席のざわめきが少しずつ遠のいていく。

人の流れから少し外れた場所で、立ち尽くす。
二日目だというのに、千景が演じる『八重垣姫』の姿が、まだ目の奥に焼きついて離れない。

恋をしていた。
舞台の上の姫も。
そして、それを見ていた自分も。
昨日よりも今日、観る度に、自分の気持ちを改めて再確認させられる。

舞台の上の千之助に対してなら、誰にも気兼ねなく見つめることができる。
『八重垣姫』として恋をしているあの人を、ただ役として見ているふりができる。
けれど、その幕が下りてしまえば、もうだめだった。

そんな熱を抱えたまま、使いの者に呼ばれて楽屋へ向かう足取りはひどく重い。
衣装を受け取るために行かなければならないのに、行きたくない。
会えばきっと、何かが顔に出る。
そう思うのに、逃げることもできなかった。

「弥生です。失礼します」

暖簾をくぐると、鬘を外し、白塗りも残したままの千景がいた。
目元も、声も、板の上の『八重垣姫』のまま、この世のものとは思えない美しさ。
舞台との距離とは違う、まだ残る熱を感じられる、この近さに息が止まりそうになる。

終わってすぐに私を呼ばれたことに、わずかばかり喜んでしまう自分がいる。

「来たか」

千景は立ち上がりかけ、そのまま少しだけためらうようにこちらを見た。
その視線が、思ったよりやわらかくて、胸がまた痛む。

「今日の舞台、どうだった」
「とても、よかったです」

昨日と同じ感想。
本当は、それだけでは全然足りない。
昨日よりも綺麗だった、と。
胸が苦しくなるほどだった、と。
『八重垣姫』の恋を見て、自分の心まで暴かれたようだった、と。

けれど、そんなことはひとつも言えない。

気を付けながら、標準語でそう言うと、千景の目がわずかに揺れた。
その揺れを見ないふりをして、視線を下げる。
目を合わせてしまったら、きっと立っていられなくなる。

千景はしばらく黙っていたが、舞台終わりの少し掠れた声で言った。

「今日の会食は、弥生も来い」
「え……」
「俺は、お前にも来てほしい」
「でも」
「でも、じゃない」

いつもより少しだけ強い口調だった。
静かなのに、断らせる気がない声だった。

「お前は昨日も今日も、一日ずっと裏で動いていただろう。せめて、それくらいは」
「うちは、よろしいんです」

自分でも驚くほど、声は静かだった。
静かなのに、その一言に自分を押し返す力ばかり込めているのがわかる。

「明日の準備もありますし、うちは場違いやと思います」
「そんなものは明日でも」
「それは、できません」

言い切った瞬間、胸の奥が痛んだ。
でも、ここで頷けば、何かが壊れてしまう気がした。
なにより、今自分にできること、したいことは、舞台の裏で千景を手伝うこと。
それを手放したら、もうどうやって千景のそばにいればいいのかわからない。
祝いの席に出る勇気より、裏方として動いている方が、まだ息がしやすかった。

「弥生」
「明日も早いので、今日はもう帰ります。お疲れやろうし、兄さんもお早う休まはった方が」

千景が一歩近づく。
これ以上、近くに、一緒にいたらだめだ。
目の前の『八重垣姫』を直視してしまったら、きっと顔にも声にも出てしまう。
好きだと知ってしまった、そのままの顔で、隠すことなくここに立ってしまう。

「待て」
「失礼します」

頭を下げて、そのまま楽屋を出た。
背後で千景が何か言いかけた気配がした。
けれど、その声が届くより先に、別の声が目の前から聞こえる。

「あら。弥生さん。今日もご苦労様」

瑠璃子だった。
振り返らず、足を止めず、そのまま通り過ぎる。

「千之助様。皆さまがお待ちですわ」

後ろから聞こえる会話が、少しでも遠くなるよう、逃げるように裏口から外に出る。
夜道の風が、頬に少し冷たかった。
それでも、熱くなった目元を冷ますには足りない。
胸の奥にたまったものは、風に当たったくらいでは少しもほどけない。