梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

すると、千景が一歩前へ出た。
瑠璃子の手を振り払いながら、間に入るような動きで。

「もう喋るな」
「嫌ですわ、わたくし何か失礼なことを?」
「弥生に構うな」
「構うな、だなんて。わたくしの未来の妹になるのに」

瑠璃子はようやく、少しだけ目を細めた。
けれどその顔も、次の瞬間にはもう柔らかい笑みに戻っている。

「千之助様は本当にお優しいのね。だから皆さま、わたくしがきちんとお支えしなければとお思いになるのだわ」

そう言って、また千景の腕に指先を沿わせる。
その仕草はしなやかで、まるで最初から自分の居場所がそこだと知っているように。
見ているだけで、胸の奥に冷たいものが溜まっていく。

「兄さん」

自分でも驚くほど、声は静かだった。
千景がすぐにこちらを見る。

「私は大丈夫です」
「弥生」
「お仕事がありますから、失礼します」

一礼すると、千景の目がはっきりと揺れた。
たぶん、私が何も言っていないことが、逆に何かあったのだと伝えてしまっている。
けれど、今ここで追及されたくなかった。
この人の前で、これ以上惨めになりたくなかった。

それに——
瑠璃子の前で、これ以上自分の心を覗かせたくなかった。
悔しい顔も、傷ついた声も、ひとつだって見せたくなかった。

「待て、弥生」

千景が呼ぶけれど、振り返らずに歩き出した私の背中へ、瑠璃子の甘い声が降る。

「弥生さん、地下の倉庫の方へは行かないほうがよろしくてよ」
「え……?」
「先ほど聞いたでしょう?あそこ、出るんですって。そういうもの、お嫌いなのでしょう?」

くすり、と笑う気配。
私はゆっくり息を吸い、何でもないふうを装って振り向いた。

「……別に」
「そう?でも、お顔に出やすいから気をつけたほうがよろしいわ。怖いものがあると、つい誰かに頼りたくなってしまいますものね」

その言い方に、ぞっとするほどの悪意を感じる。
ただ脅かしているのではない。
敢えて千景の前で、私が誰に頼るのかまで、決めつけて笑っている。
一瞬だけ、千景の顔が強張る。
瑠璃子がそこまで言うとは思っていなかったかもしれない。

「瑠璃子、いい加減にしろ」
「まあ。わたくし、心配して差し上げているだけですのに」
「お気遣い、ありがとうございます」

頭を下げ、そのまま、今度こそ廊下を歩き出す。
背後で千景の声がした気がした。
けれど、立ち止まらなかった。
立ち止まったら、きっと泣くか、みっともないことを言ってしまう。

歩きながら、自分の手が小さく震えているのがわかる。
怖いからではない。悔しいのだ。
何も言い返せないことが。言い返す資格もない。
見せつけられているのに、見なかったふりしかできないことが。
そして、それでも千景の声に振り返りそうになる自分が、いちばん悔しかった。

劇場の裏は忙しい。
誰も、盆を抱えた娘が少しだけ足早に去っていくことなど気に留めない。
衣裳が擦れ、木箱が鳴り、誰かが別の名を呼んでいる。
世界は何も止まらない。

それでも、背中にはひりつくような視線が残っていた。
千景のものか、瑠璃子のものか、それともその両方か。
わからないまま、人の間をすり抜けていく。
胸の奥だけが、じわじわと冷えたままに。