梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

裏の廊下へ出ると、ちょうど向こうから千景が歩いてくるのが見えた。

拵えはまだこれからなのだろう。
黒の紋付に袴姿のまま、支度前の張りつめた空気をまとっている。
探しているわけでもないのに、人の多い劇場の中でも、千景の姿だけは遠くからでもすぐわかってしまう。
役へ入る前の静けさを、そのまま身にまとっているみたいだった。

目が合った瞬間、千景の足が止まる。

「弥生」

名前を呼ばれて、胸が小さく跳ねた。
私は盆を抱え直し、何でもない顔を作る。

「おはようございます、兄さん」
「どうした」

千景は近づいてくるなり、顔を覗き込まれる。
逃がさないような目。

「顔色が悪い」
「そうでしょうか」
「悪い」

有無を言わせない口調だった。
思わず視線を逸らす。

地下倉庫の噂を聞いてしまったことも、瑠璃子に言われたことも、初演後の会食に呼ばれていなかったことも、何も言いたくない。
言えばきっと、声が揺れる。訛りも出る。
そうしたら、何もないふりができなくなる。
今はまだ、昨日のことを自分の中でうまく片づけられてもいないのに。

「何でもありません」
「弥生」
「本当に。少し寝不足なだけです」

千景は納得していない顔だった。
それでも、すぐには問い詰めない。
私が口を閉ざした時は、それ以上無理にこじ開けようとしない。
そういう人だからこそ、余計に苦しい。

その沈黙が落ちかけた時だった。

「千之助様」

振り返らなくても瑠璃子だとわかる、よく通るやわらかな声。

先ほどと何も変わらない、劇場の裏の雑然とした空気の中にあって、その人だけが別の場所から切り取られてきたみたいに華やかだった。
人の往来も、道具の匂いも、埃っぽさも、あの人の周りだけ触れられないみたいに見える。

「こんなところにいらしたのね。皆さま、お探しでしたわ」

瑠璃子はそう言いながら、当然のような顔で千景のすぐそばまで来た。
そして、ごく自然に——本当に、ごく自然に見える動きで、千景の腕にそっと手を添える。

支えるように。
気遣うように。
でも、その指先の置き方が、あまりにも馴れ馴れしい。
一度も躊躇ったことのない人の手つき。

「あら、弥生さんもいらしたの」

さっき会ったばかりなのに、今気づいたみたいな声。
けれど、その目は最初から私を見ていた。

「お手伝い、ご苦労さま」
「……ありがとうございます」
「千之助様は、これから大事なお話があるの。あまりお引き止めしてはだめよ」

言い方は優しい。
けれど、そこに込められた意味を読み違えるほど鈍くはない。
ここにいていい側と、そうではない側を、やんわり線引きしている声だった。

その時、廊下の向こうから先ほどの大道具方の若い男がやってきた。
男は瑠璃子の姿を見るなり、ほんの一瞬だけ、妙に気安い目をした。
だがすぐに取り繕い、深く頭を下げる。

「お嬢様、お足元にお気をつけください」
「ええ、ありがとう」

瑠璃子の返事も、どこか柔らかすぎた。

その若い男は、ただ道を譲るだけならそのまま通り過ぎればいいはずなのに。
それなのに、瑠璃子の足元や袖口にまで目を配り、言われる前に動く。
その気の回し方が、顔見知り、というより、もっと慣れている。

ほんの一瞬。
ただそれだけなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残る。
私があの場から離れた後、この二人に何かあったのでは……?
そんな違和感が、胸の奥に薄く引っかかったまま離れない。

千景の低い声も、瑠璃子のやわらかな返しも、廊下の空気を少しずつ張りつめさせていく。
誰か一人でも通りかかれば、きっと何事もない顔に戻るのだろう。
けれど今この一角だけは、笑顔の下で刃が触れ合っているみたいに。

けれど今は、それどころではない。
千景の腕に添えられた瑠璃子の手から、どうしても目を逸らせない。
それは、私に見せつけるための距離。

「瑠璃子」

千景の声が、ひやりと低くなる。
けれど瑠璃子は少しも怯まない。
むしろ、その冷たさすら気に留めていないように笑う。

「だって、本当のことでしょう?千之助様は御曹司で、特別なお立場なのですもの」
「今はその話をしていない」
「まあ、怖い」

そう言いながらも、瑠璃子は千景から手を離さない。
心臓が、冷たく縮こまる。
言い返したい。
でも、何を。
違う、と言える立場でもない。

ぎゅっと盆の縁を握りしめる。
指先に力が入りすぎて、木の縁が痛い。