朝の舞台裏は、前日以上に慌ただしかった。
大道具が運ばれ、衣装箱が行き来し、誰かの呼ぶ声があちこちから飛んでくる。
茶を運ぶための盆を整えながら、邪魔にならないよう廊下の端を歩いていた。
足を止めれば、すぐ次の用事が降ってくる。そんな慌ただしさだった。
ふと、裏方の男たちの笑い声が耳に入る。
「おい、昨日あそこ開けたやついるか?」
「地下の倉庫か?やめとけよ、また出るぞ」
「出るって、何がだよ」
「決まってるだろ。幽霊だよ」
「はは、またその話か。誰もいないのに衣擦れの音だっけ?」
「いや本当だって。夜に行くと、女の泣き声がするんだって」
思わず、足が止まった。
地下倉庫。
その言葉だけで、背筋が冷たくなる。
置屋にいた頃から、ああいう話はどうにも苦手で仕方ない。
幽霊だの怪異だの、ただの作り話だとわかっていても、暗くて人気のない場所と結びつくと、急に息苦しくなる。
歌舞伎の演目に、そんな内容なんてたくさんある。
まして劇場の地下は、昼間でもどこか灯りの届かない場所がある。
そんなのはわかっているはずなのに、考えるだけで、寒気と鳥肌に胸のあたりがきゅっと縮んだ。
手にしていた茶碗が、カチッ、と小さく鳴った。
「あら」
その声に振り向くと、瑠璃子が立っていた。
今日も見事な振袖姿で、舞台裏の雑然とした空気の中にあって、その人だけ別の世界のものみたいに整っている。
金糸の刺繍も、指先の所作も、ここだけ空気の質が違うみたいだった。
「もしかして、今の話が怖いのかしら?」
「……別に」
「そうかしら」
瑠璃子はくすりと笑った。
「お顔に、ちゃんと出ていましてよ」
何も言わず、盆を持ち直す。
瑠璃子はそれを見て、ますます楽しそうな笑みを浮かべる。
「でも、わかるわ。あなた、こういう場所には慣れていないものね」
「劇場のお手伝いは、何度もしております」
「お手伝い、ですものね」
その言い方に、ほんのわずかに棘が混じる。
瑠璃子は私の袴姿を上から下まで眺め、それから小首を傾げた。
働く側の格好だと、わざわざ見定めるみたいに。
「そういえば、昨日の初演後の会食にはお見えになりませんでしたわね」
「……はい」
「千之助様の晴れの日でしたのに。ご一緒されないのかしらと思っておりましたの」
「私は、その……お役目が終わりましたので」
「まあ」
瑠璃子はわざとらしく、両手で口元を隠した。
「でも、そうでしたわね。東城院のお身内と申しましても、あなたは少し事情が違いますもの」
「……」
「西の出で、芸妓であるお妾の娘ですものね」
静かな声だった。
大きくもない。けれど、耳の奥に冷たく刺さるには十分。
怒鳴られるより、こういう言い方の方が余計に逃げ場がない。
僅かに曇る表情を確認すると、瑠璃子は満足したように微笑んで、さらに一歩近づいた。
「勘違いなさらないで。わたくし、別に意地悪を言いたいわけではないの」
「そうですか」
「ええ。ただ、分を弁えた方が、ご自身のためだと思いましたの」
「分、ですか」
「千之助様は東城院の御曹司ですわ。舞台の上に立つべき方には、並ぶべき相手というものがございますでしょう?」
そう言うと、私の胸元に扇子をトンっと突き立て、ポイッと扇子を落とす。
「……もちろん、わかっています」
私が拾えということだろうか……
考えあぐねていると、廊下の向こうから大道具方の若い男がやってきた。
瑠璃子の姿を見た瞬間、男の目がわずかに変わる。
ただの客人を見る目ではない。妙に気安く、妙に気を回した目。
「お嬢さま、こちらにいらしたんですか」
「少しお話をしていただけよ」
瑠璃子が柔らかく言うと、男は足元に落ちた扇子にすぐ気づき、慣れた手つきで拾い上げた。
「ありがとう」
「いえ」
そのやり取りはほんの一瞬だった。
けれど、指先の触れ合う感じが、妙に馴染んで見えた。
その様子に目を留めると、瑠璃子はすぐ何事もなかったように笑う。
まるで、こうして人を使うことに慣れているみたいに。
その男もまた、瑠璃子の前では余計な言葉を挟まない。
ただ気を利かせ、すぐに動く。その自然さが、かえって胸に小さな引っかかりを残す。
「では、弥生さん。お仕事の邪魔をしてしまってごめんなさいね」
「……いえ。失礼します」
「ええ。どうぞ、お気をつけて」
最後の一言に、瑠璃子はまた小さく笑った。
脅かして楽しんでいるだけなのか、それとも別の意味があるのか、わからない。
わからないのに、その言葉だけが妙にあとを引いた。
それ以上何も返さず、盆を抱え直してその場を離れた。
背中に残る視線が、やけに冷たい。
歩きながらも、地下倉庫、という言葉と、瑠璃子の笑い方が、耳の奥にいつまでも残る。
胸の中に、説明のつかないざらつきだけが沈んでいく。
ただの偶然とは思えない、薄い気味の悪さが、いつまでも消えない。
大道具が運ばれ、衣装箱が行き来し、誰かの呼ぶ声があちこちから飛んでくる。
茶を運ぶための盆を整えながら、邪魔にならないよう廊下の端を歩いていた。
足を止めれば、すぐ次の用事が降ってくる。そんな慌ただしさだった。
ふと、裏方の男たちの笑い声が耳に入る。
「おい、昨日あそこ開けたやついるか?」
「地下の倉庫か?やめとけよ、また出るぞ」
「出るって、何がだよ」
「決まってるだろ。幽霊だよ」
「はは、またその話か。誰もいないのに衣擦れの音だっけ?」
「いや本当だって。夜に行くと、女の泣き声がするんだって」
思わず、足が止まった。
地下倉庫。
その言葉だけで、背筋が冷たくなる。
置屋にいた頃から、ああいう話はどうにも苦手で仕方ない。
幽霊だの怪異だの、ただの作り話だとわかっていても、暗くて人気のない場所と結びつくと、急に息苦しくなる。
歌舞伎の演目に、そんな内容なんてたくさんある。
まして劇場の地下は、昼間でもどこか灯りの届かない場所がある。
そんなのはわかっているはずなのに、考えるだけで、寒気と鳥肌に胸のあたりがきゅっと縮んだ。
手にしていた茶碗が、カチッ、と小さく鳴った。
「あら」
その声に振り向くと、瑠璃子が立っていた。
今日も見事な振袖姿で、舞台裏の雑然とした空気の中にあって、その人だけ別の世界のものみたいに整っている。
金糸の刺繍も、指先の所作も、ここだけ空気の質が違うみたいだった。
「もしかして、今の話が怖いのかしら?」
「……別に」
「そうかしら」
瑠璃子はくすりと笑った。
「お顔に、ちゃんと出ていましてよ」
何も言わず、盆を持ち直す。
瑠璃子はそれを見て、ますます楽しそうな笑みを浮かべる。
「でも、わかるわ。あなた、こういう場所には慣れていないものね」
「劇場のお手伝いは、何度もしております」
「お手伝い、ですものね」
その言い方に、ほんのわずかに棘が混じる。
瑠璃子は私の袴姿を上から下まで眺め、それから小首を傾げた。
働く側の格好だと、わざわざ見定めるみたいに。
「そういえば、昨日の初演後の会食にはお見えになりませんでしたわね」
「……はい」
「千之助様の晴れの日でしたのに。ご一緒されないのかしらと思っておりましたの」
「私は、その……お役目が終わりましたので」
「まあ」
瑠璃子はわざとらしく、両手で口元を隠した。
「でも、そうでしたわね。東城院のお身内と申しましても、あなたは少し事情が違いますもの」
「……」
「西の出で、芸妓であるお妾の娘ですものね」
静かな声だった。
大きくもない。けれど、耳の奥に冷たく刺さるには十分。
怒鳴られるより、こういう言い方の方が余計に逃げ場がない。
僅かに曇る表情を確認すると、瑠璃子は満足したように微笑んで、さらに一歩近づいた。
「勘違いなさらないで。わたくし、別に意地悪を言いたいわけではないの」
「そうですか」
「ええ。ただ、分を弁えた方が、ご自身のためだと思いましたの」
「分、ですか」
「千之助様は東城院の御曹司ですわ。舞台の上に立つべき方には、並ぶべき相手というものがございますでしょう?」
そう言うと、私の胸元に扇子をトンっと突き立て、ポイッと扇子を落とす。
「……もちろん、わかっています」
私が拾えということだろうか……
考えあぐねていると、廊下の向こうから大道具方の若い男がやってきた。
瑠璃子の姿を見た瞬間、男の目がわずかに変わる。
ただの客人を見る目ではない。妙に気安く、妙に気を回した目。
「お嬢さま、こちらにいらしたんですか」
「少しお話をしていただけよ」
瑠璃子が柔らかく言うと、男は足元に落ちた扇子にすぐ気づき、慣れた手つきで拾い上げた。
「ありがとう」
「いえ」
そのやり取りはほんの一瞬だった。
けれど、指先の触れ合う感じが、妙に馴染んで見えた。
その様子に目を留めると、瑠璃子はすぐ何事もなかったように笑う。
まるで、こうして人を使うことに慣れているみたいに。
その男もまた、瑠璃子の前では余計な言葉を挟まない。
ただ気を利かせ、すぐに動く。その自然さが、かえって胸に小さな引っかかりを残す。
「では、弥生さん。お仕事の邪魔をしてしまってごめんなさいね」
「……いえ。失礼します」
「ええ。どうぞ、お気をつけて」
最後の一言に、瑠璃子はまた小さく笑った。
脅かして楽しんでいるだけなのか、それとも別の意味があるのか、わからない。
わからないのに、その言葉だけが妙にあとを引いた。
それ以上何も返さず、盆を抱え直してその場を離れた。
背中に残る視線が、やけに冷たい。
歩きながらも、地下倉庫、という言葉と、瑠璃子の笑い方が、耳の奥にいつまでも残る。
胸の中に、説明のつかないざらつきだけが沈んでいく。
ただの偶然とは思えない、薄い気味の悪さが、いつまでも消えない。



