障子が閉まった音が、楽屋の中でやけに大きく響いた。
しばらく、閉じられたままの障子を見ていた。
今すぐ弥生を追いかけるべきだと、頭ではわかっている。
この場を飛び出して、手を掴み、振り向かせ、きちんと目と目を合わせて。
違うと、あれは違うのだと、俺の意志ではないと、弥生に言わなければならないことも。
けれど、今ここで俺が楽屋を出て弥生を追いでもしようものなら、外に控えている者たちの目も、綾小路家の思惑も、待ち構えている連中の憶測も、全部が一気に騒ぎになる。
『八重垣姫』の初日を終えたばかりの東條千之助が、顔色を変えて楽屋を飛び出したとなれば、それだけで意図しない話になる。
追いかけたところで、どう説明する。
弥生が目にしたものは、紛れもない事実なのに。
瑠璃子がいて、父と母がいて、後援筋がいて、婚約の話まで口にされた。
あの場だけ切り取れば、どう見てもそういうことだ。言い訳のしようもない。
言い訳……などと考えた時点で、弥生が俺にとってどういう存在なのか、わかりきっているのに。
その一瞬の躊躇いが、ひどく腹立たしい。
ためらった時点で、もう遅い気がした。
「千之助様?」
背後から瑠璃子の声がした。
振り返ると、瑠璃子は何も知らないふうな、いや、知っていてなお崩れない顔で立つ。
乱れひとつない。香の匂いまで、さっきと同じだ。
この場に入ってくることも、ここで俺と話すことも、最初から当然だと思っている顔。
「皆さまがお待ちですわ。今夜は綾小路の父と、千宗様もご一緒にお食事をと」
「……これは、誰の差し金だ」
「何のことでしょう」
「弥生だけ、何も知らされていなかった」
「まぁ、そうでしたの?」
冷えた目で瑠璃子を見ると、彼女は目を丸くした。
だが、その驚きはあまりに薄い。
形だけの波紋。底は少しも揺れていない。
「東城院のお身内のお話に、わたくしが口を挟むことではありませんもの」
「口を挟まなくても、利用はできる」
「酷い言い方ですのね」
やわらかな声。
だが、そのやわらかさがかえって神経を逆撫でしてくる。
責められているふうでもなく、怯えているふうでもなく、ただ上等な絹を一枚かぶせたみたいに言葉を返してくる。
その一枚の下に何があるのか、見え透いているのに。
「今日の『八重垣姫』という大役は、千之助様にこそふさわしいと思ったからこそ、父も後援会も力を尽くしましたのに」
「だから、その礼に俺の先のことまで決めると?」
「先、ではありませんわ。皆が望んでいることでしょう」
『八重垣姫』の初日。
東條千之助として最も注目される日。
後援筋も家の者も揃う日。
その場で既成事実のように並べられれば、たとえ俺自身のことであっても表立って何も言えない。
そのどれにも逆らえないように、今日という日が選ばれたのだと、その瞬間にはっきりわかった。
否定すれば、自分一人の顔だけでは済まない。
東城院の顔を潰す。
後援の顔を潰す。
その場にいるすべての人間に、水を差した男として残る。
そういう責任ごと背負わせるための、見事な騙し討ち。
何より許せないのは、弥生にだけ何も知らせなかったこと。
あの袴姿を思い出した瞬間、奥歯を噛みしめる。
祝う側でもなく、並ぶ側でもなく、ただ使いに出された娘の格好。
働くための襷をかけたまま、何も知らずにあの場へ立たされた姿。
あれを見て、何も感じないほど鈍くはない。
弥生がどんな思いであそこに立っていたか、想像できないほど馬鹿でもない。
「母か」
瑠璃子は答えない。
ただ、静かに微笑んだだけだった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
「……下がってくれるか」
「千之助様」
「まだ、着替えが終わっていない。今は、誰の顔も見たくない」
初めて、声に明確な苛立ちが混じり、瑠璃子の笑みが、ほんの少しだけ揺らぐ。
けれどすぐに整え直し、裾をさばいて一礼した。
「お怒りになるのは勝手ですわ。でも、皆さまはもうご存じですもの」
「何を」
「御曹司という千之助様には、綾小路の娘である、わたくしがふさわしいと」
障子が閉まり、静まり返った楽屋に、一人きりになる。
その場に立ったまま、深く息を吐く。
怒りで胸の内が焼けるようだった。
母に対しても。
瑠璃子に対しても。
そして、そんなことが起きるまで弥生を守れなかった自分にも。
弥生に、何と言えばよかったのか。
違う、と。
違うのだと。
お前が見たものがすべてじゃないと。
俺はあんなふうに並べられたいわけじゃないと。
お前をあんな場所に立たせたかったわけじゃないと。
だが、あの場で言えなかった時点で、弥生にとってはもう同じこと。
言えなかった理由がどれだけあろうと、弥生の前では言えなかったという事実だけが残る。
あの瞬間に手を伸ばせなかったこと、それ自体が答えみたいなものだ。
謀った母とその他大勢と何も変わらない。
「会いたい……」
どれだけなじられても構わない。
どんな言葉でも、全て受け止めるから。
そうして抱き締められたなら。
目を閉じると、脳裏に浮かぶのは、あのひどく綺麗な標準語だった。
『兄さん。本当におめでとうございます』
訛りも淀みもない、よそゆきの声。
弥生が一番遠くへ引いた時の声だと、すぐにわかった。
あんなふうに声を整えて、笑って、頭まで下げて。
あれは祝福なんかじゃない。
これ以上近づきませんと、自分から線を引く声。
あんな声を出させたかったわけではない。
拳を握りしめる。
爪が食い込むほど力を込めても、胸の痛みは少しも薄れない。
むしろ、握るほどにはっきりしていくばかり。
弥生を傷つけたくなかった。
傷つけないようにするのは俺の仕事だと、薫子に言ったのに。
結局、いちばん酷いところで守れなかった。
「……すまない」
誰に向けたのか、自分でもわからないまま、声だけが落ちた。
母にか。
弥生にか。
それとも、言い訳ばかり探して立ち尽くしていた自分にか。
しばらく、閉じられたままの障子を見ていた。
今すぐ弥生を追いかけるべきだと、頭ではわかっている。
この場を飛び出して、手を掴み、振り向かせ、きちんと目と目を合わせて。
違うと、あれは違うのだと、俺の意志ではないと、弥生に言わなければならないことも。
けれど、今ここで俺が楽屋を出て弥生を追いでもしようものなら、外に控えている者たちの目も、綾小路家の思惑も、待ち構えている連中の憶測も、全部が一気に騒ぎになる。
『八重垣姫』の初日を終えたばかりの東條千之助が、顔色を変えて楽屋を飛び出したとなれば、それだけで意図しない話になる。
追いかけたところで、どう説明する。
弥生が目にしたものは、紛れもない事実なのに。
瑠璃子がいて、父と母がいて、後援筋がいて、婚約の話まで口にされた。
あの場だけ切り取れば、どう見てもそういうことだ。言い訳のしようもない。
言い訳……などと考えた時点で、弥生が俺にとってどういう存在なのか、わかりきっているのに。
その一瞬の躊躇いが、ひどく腹立たしい。
ためらった時点で、もう遅い気がした。
「千之助様?」
背後から瑠璃子の声がした。
振り返ると、瑠璃子は何も知らないふうな、いや、知っていてなお崩れない顔で立つ。
乱れひとつない。香の匂いまで、さっきと同じだ。
この場に入ってくることも、ここで俺と話すことも、最初から当然だと思っている顔。
「皆さまがお待ちですわ。今夜は綾小路の父と、千宗様もご一緒にお食事をと」
「……これは、誰の差し金だ」
「何のことでしょう」
「弥生だけ、何も知らされていなかった」
「まぁ、そうでしたの?」
冷えた目で瑠璃子を見ると、彼女は目を丸くした。
だが、その驚きはあまりに薄い。
形だけの波紋。底は少しも揺れていない。
「東城院のお身内のお話に、わたくしが口を挟むことではありませんもの」
「口を挟まなくても、利用はできる」
「酷い言い方ですのね」
やわらかな声。
だが、そのやわらかさがかえって神経を逆撫でしてくる。
責められているふうでもなく、怯えているふうでもなく、ただ上等な絹を一枚かぶせたみたいに言葉を返してくる。
その一枚の下に何があるのか、見え透いているのに。
「今日の『八重垣姫』という大役は、千之助様にこそふさわしいと思ったからこそ、父も後援会も力を尽くしましたのに」
「だから、その礼に俺の先のことまで決めると?」
「先、ではありませんわ。皆が望んでいることでしょう」
『八重垣姫』の初日。
東條千之助として最も注目される日。
後援筋も家の者も揃う日。
その場で既成事実のように並べられれば、たとえ俺自身のことであっても表立って何も言えない。
そのどれにも逆らえないように、今日という日が選ばれたのだと、その瞬間にはっきりわかった。
否定すれば、自分一人の顔だけでは済まない。
東城院の顔を潰す。
後援の顔を潰す。
その場にいるすべての人間に、水を差した男として残る。
そういう責任ごと背負わせるための、見事な騙し討ち。
何より許せないのは、弥生にだけ何も知らせなかったこと。
あの袴姿を思い出した瞬間、奥歯を噛みしめる。
祝う側でもなく、並ぶ側でもなく、ただ使いに出された娘の格好。
働くための襷をかけたまま、何も知らずにあの場へ立たされた姿。
あれを見て、何も感じないほど鈍くはない。
弥生がどんな思いであそこに立っていたか、想像できないほど馬鹿でもない。
「母か」
瑠璃子は答えない。
ただ、静かに微笑んだだけだった。
その沈黙が、何より雄弁だった。
「……下がってくれるか」
「千之助様」
「まだ、着替えが終わっていない。今は、誰の顔も見たくない」
初めて、声に明確な苛立ちが混じり、瑠璃子の笑みが、ほんの少しだけ揺らぐ。
けれどすぐに整え直し、裾をさばいて一礼した。
「お怒りになるのは勝手ですわ。でも、皆さまはもうご存じですもの」
「何を」
「御曹司という千之助様には、綾小路の娘である、わたくしがふさわしいと」
障子が閉まり、静まり返った楽屋に、一人きりになる。
その場に立ったまま、深く息を吐く。
怒りで胸の内が焼けるようだった。
母に対しても。
瑠璃子に対しても。
そして、そんなことが起きるまで弥生を守れなかった自分にも。
弥生に、何と言えばよかったのか。
違う、と。
違うのだと。
お前が見たものがすべてじゃないと。
俺はあんなふうに並べられたいわけじゃないと。
お前をあんな場所に立たせたかったわけじゃないと。
だが、あの場で言えなかった時点で、弥生にとってはもう同じこと。
言えなかった理由がどれだけあろうと、弥生の前では言えなかったという事実だけが残る。
あの瞬間に手を伸ばせなかったこと、それ自体が答えみたいなものだ。
謀った母とその他大勢と何も変わらない。
「会いたい……」
どれだけなじられても構わない。
どんな言葉でも、全て受け止めるから。
そうして抱き締められたなら。
目を閉じると、脳裏に浮かぶのは、あのひどく綺麗な標準語だった。
『兄さん。本当におめでとうございます』
訛りも淀みもない、よそゆきの声。
弥生が一番遠くへ引いた時の声だと、すぐにわかった。
あんなふうに声を整えて、笑って、頭まで下げて。
あれは祝福なんかじゃない。
これ以上近づきませんと、自分から線を引く声。
あんな声を出させたかったわけではない。
拳を握りしめる。
爪が食い込むほど力を込めても、胸の痛みは少しも薄れない。
むしろ、握るほどにはっきりしていくばかり。
弥生を傷つけたくなかった。
傷つけないようにするのは俺の仕事だと、薫子に言ったのに。
結局、いちばん酷いところで守れなかった。
「……すまない」
誰に向けたのか、自分でもわからないまま、声だけが落ちた。
母にか。
弥生にか。
それとも、言い訳ばかり探して立ち尽くしていた自分にか。



