梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

終演後、衣装を片付けるために千景の楽屋へ向かう足取りは、ひどく重かった。

さっきまで舞台の上にいた『八重垣姫』の面影が、まだ瞼の奥に焼きついている。
好きだと知ってしまったばかりの心を抱えたまま、いつものような顔で会いに行けるはずがない。
歩いているだけなのに、胸の中ではまだ幕が下りきっていない。
あの声も、あの視線も、袖を押さえる指先まで、全部が残っている。

「弥生です。失礼します」

ブーツを脱ぎ、障子を開けると、鬘を外し、白塗りを半ば落とした千景がそこにいた。
鏡台の前に座っていたが、私が入った瞬間、すぐに振り返る。

「俺の『八重垣姫』はどうだった」

その第一声は、舞台の上の千之助ではなく、もういつもの千景のものだった。
それだけで、胸が苦しくなる。
さっきまで恋する姫だった人が、もう私の知っている千景の声で話す。
そのことが、嬉しくもあるのに、今はつらかった。

「……とても、ようございました」
「……それだけか」

いつもと同じ問いかけ。
けれど、今はその一言に含まれるものが少し違って聞こえる。
視線を落としたまま、袴の裾を見つめる。

「『八重垣姫』、とてもお綺麗でした」
「そうか」
「観ていた皆さんも、きっとそう思わはったはずです」

だめだ。
ちゃんと話さなければと思うのに、口を開くたびに、言いたいことではない言葉ばかりが出てくる。
本当は、綺麗でした、だけでは足りない。

恋していました、と言いたい。
苦しかったです、と言いたい。
好きだと気づいてしまいました、と、そんなことまで喉もとに来る。
だから、余計に当たり障りのない言葉しか出せない。

千景が立ち上がる気配がした。
近づいてくる足音に、思わず肩が強張る。
畳を踏む音がひとつ近づくたび、逃げ場がなくなっていく気がした。

「弥生」
「兄さん」

遮るように呼びかける声が、自分でも驚くほど硬かった。
千景の足が止まる。

「……どうした」
「ひとつ、お願いがあるんです」
「お願い?」

顔を上げられないまま、息を整える。
一度口にしたら戻れないとわかっている言葉ほど、形にするのが難しい。

「これからは、その……お稽古の後も、それ以外でも、こうして二人きりでお話しするのは、控えた方がええと思うんです」

沈黙が落ちた。

鏡台の明かりだけが静かに揺れている。
白粉の匂いと、舞台を終えたばかりの熱の残りが、狭い楽屋の中にまだ残っていた。
千景が何も言わない数秒が、ひどく長く感じられる。
息をする音まで聞こえそうで、耐えきれず、私は袴の生地を指先でぎゅっとつまんだ。

「それは、どうしてだ」

舞台後の、少し掠れた低い声。
怒っているわけではない。
けれど、明らかに平静ではないような。
抑えてはいるのに、その下で何かが動いている声。

「兄さんは、東城院家の御曹司で……今日みたいな大事な舞台もあって、それに」

そこで一度、言葉が詰まる。
名前を出したくなかった。
出した瞬間に、目の前の現実がもっとはっきりしてしまう気がしたから。

「瑠璃子さんと婚約されはるし……」
「気にするな」
「それは、あきません」
「弥生」

千景の気配が、わずかに変わった。
今度の声は、さっきより近かった。
たぶんもう、手を伸ばせば触れられる距離にいる。
その近さが、嬉しいより先に苦しくなる。

「あれは、お前が思っているような話じゃない」
「でも、周りはそう思うてはります」
「俺は……」
「兄さんっ!」

思わず、強く遮ってしまった。

こんなふうに千景の言葉を止めたのは、初めてのことで、自分でも驚く。
けれど、止めなければ、きっと聞いてはいけないことまで聞いてしまう気がした。
聞いてしまったら、もう後戻りできなくなる。
そう思ったら、怖くて仕方ない。

「これ以上、兄さんのお邪魔になりとうありません」
「邪魔?」
「今日だって、うちは何も知らされていなくて、こないな格好で劇場に来てしもて……兄さんにも、ご迷惑を」
「そんなことを言っているんじゃない」
「うちは兄さんの妹です」

ようやく顔を上げる。

「……っ妹、なんです」

千景の目は、思っていたよりずっと痛そうだった。
その目を見た瞬間、胸の奥がまた鈍く痛む。
そんな顔をさせたいわけやないのに、言うしかなかった。

でも、もう遅い。
ここで何かを期待してはいけない。

『私、気が付いているわ。お兄様が弥生さんと話をする時と、私と話をする時とで、顔も視線も、何もかもが違うわ』

もし、薫子が言っていることが本当なら……
あの婚約の場を見てしまったあとで、なお妹である自分が、近くにいようとする方が間違っている。

「兄さんには、兄さんにふさわしいお人がいてはります」
「弥生」
「うちは、裏でお手伝いしているくらいがちょうどええんです。今までも、そうしてきましたし。これからも、そうします」

言いながら、声が少しずつ薄くなっていくのがわかった。
本当は、そんなふうに思っていないからだ。
裏で働く側がちょうどいいなんて、そう思い込もうとしてきただけ。
それでも、そうでも言わなければ、自分の心を押さえ込めなかった。

千景が何か言いかけた、その時。

「千之助様、失礼いたしますわ」

暖簾の向こうから、甘やかな女の声がして、私はびくりと肩を震わせる。
返事をする間もなく、するりと瑠璃子さんが楽屋に入ってくる。

薄い香の匂いが、部屋の空気に静かに混ざる。
すでに外出用の上等な羽織を重ね、髪も乱れひとつない。
まるで最初から、ここに入るのが当然だとでも言うような。
祝われる側に並ぶことにも、こうして楽屋に入ってくることにも、何の躊躇いもない人の顔。

「あら」

瑠璃子は私を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
その一瞬に浮かんだものが、驚きではないことだけはすぐにわかった。
見つけた、ではなく、やはりいたのね、と確認するような目。

「入口に、その、あまり見慣れないようなブーツがあったから、誰がいらっしゃるのかと思ったら」

あんな何年も履き潰したブーツを、こんな着飾った方に見られたことに、恥ずかしくなる。

「まだ、いらしたのね」
「……失礼します」

それだけ言うのが精一杯だった。

千景が何か言おうとする気配がする。
けれど、もうその声を聞きたくなかった。
聞いてしまえば、きっとまた期待してしまう。
今ここで優しい言葉をひとつもらったら、それだけで全部が崩れてしまう気がした。

「弥生、待て」
「本日は、本当におめでとうございました」

振り返らずに頭を下げ、そのまま楽屋を出る。
背後で千景の足音が一歩だけ動いた気がした。
けれど、瑠璃子の柔らかな声が、それを留めるように響く。

「千之助様、千宗様方がお待ちですわ」

歩くブーツの音と振動が、身体全体に響く。
走らなかったのは、走れば泣いてしまいそうだったからだ。
舞台裏の喧騒を抜け、夜の劇場を出る。
外の空気はもう冷えていて、袴の裾を揺らす風が妙に肌にしみた。
白粉と香の匂いがようやく薄れていくのに、胸の苦しさだけは少しも薄れない。

行き交う人々の中を、一人で歩く。
さっきまで、あんなに近くにいたのに。
『八重垣姫』の恋を見て、自分の心を知ってしまったばかりなのに。
好きだとわかった、その日に、自分から離れようとしている。
それが滑稽なくらい、どうしようもなかった。

本当は離れたくない。
どんな形でもそばにいたいのに、千景から距離を置こうとしている。
置かなければならないと、何度も自分に言い聞かせながら。
近づいた分だけ苦しくなるのなら、これ以上はだめだと。
そうしないと、どこまででも期待してしまいそうで。

大丈夫。今なら引き返せる。離れられる。

唇を噛む。
そうでもしないと、今にも名前を呼んで振り返ってしまいそうだった。
呼んだところで、どうにもならないのに。
どうにもならないからこそ、呼びたかった。

「……兄さん」

小さく零れた声は、夜の街に吸い込まれていった。
返ってくるはずもないのに、しばらく私はその場に立ち尽くし、自分の声が消えた方を見ていた。