舞台が始まるまで、まるで夢の底を歩いているようだった。
手はいつも通り動いているのに、心だけがひどく遠い。
足元は確かにこの劇場の板の上にあるのに、自分だけが薄い膜の向こう側に取り残されているような心地がした。
『婚約』
その二文字が、胸の奥に沈んだまま、少しも動かない。
『おめでとうございます』
そう言った。
ちゃんと言えた。
訛りもなく、声も震えず、笑ってさえみせた。
あれでよかったのだ。
ああ言うしかなかったのだと、頭ではわかっている。
わかっているのに、どうしてこんなにも息が苦しいのだろう。
胸の真ん中に冷たい石でも入れられたみたいに、呼吸をするたび鈍く重い。
やがて、開幕を知らせる柝の音が響いた。
舞台袖に立つ。
ここからなら、客席のざわめきも、舞台へ向かう張りつめた空気も、両方がよくわかる。
白粉の匂い、衣裳の布が擦れる音、息を潜める人の気配。
幕の向こうへ押し出される直前の熱が、肌にじかに触れてくる。
東城院家の御曹司でも、兄でもない。
ここに現れるのは、東條千之助。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく静かになった。
婚約という言葉も、瑠璃子の振袖も、薫子の笑顔も、いったん遠のく。
今だけは、ただ舞台だけを見ればいいのだと、自分に言い聞かせることができた。
幕が上がる。
現れた『八重垣姫』に、息を呑んだ。
綺麗だと思った。
それはもう、稽古の時から今日まで、何度も思ってきたことだ。
千景はただ立っているだけでも目を引く人だったし、女方の稽古を重ねるほど、その美しさは曖昧なものではなく、確かな形を持ちはじめていた。
それが拵えによって完璧な『八重垣姫』になったのなら、よりいっそう美しくなるのなんて、わかっていたのに。
千之助の『八重垣姫』は、それだけではなかった。
ただ美しい姫ではない。
待っている女。
祈っている女。
想う人のために、心の内を抱きしめたまま、じっと立っている女。
華やかな衣裳の中に、誰にも見せられない切実さをきちんと隠している。
その隠し方まで美しい。
視線をひとつ落とすだけで、胸の内が見える。
わずかに息をつく間で、言葉にできない想いが伝わってくる。
袖を押さえる指先にまで、恋が宿っていた。
恋をしている女の、どうしようもない慎ましさと熱が、その指の置き方ひとつに滲んでいた。
知らず知らずのうちに、袴の折り目を握る手に力が入る。
指先が白くなるほど握っているのに、そのことにしばらく気づかないほどに。
ああ、と胸の奥で何かが崩れる。
「兄さん……えらい、お綺麗や……」
そうだ。
私が惹かれていたのは、ただ千景の芸だけではない。
稽古に打ち込む横顔。
役をつかめず、何度打ちのめされても立ち上がる目。
淡々としているのに、歌舞伎の話になると声の奥にだけ熱が灯ること。
私の言葉を、誰より真剣に受け取ってくれたこと。
東城院の屋敷で、私の持つものを初めて財産だと言ってくれたこと。
学校を失ったあとも、私の言葉が死ぬのを見たくないと言ってくれたこと。
その全部を、ずっと見てきた。
見ないふりをしながら、ちゃんと見てきた。
舞台の上の『八重垣姫』は、恋をしていた。
そしてそれを見ている私も、もう誤魔化しようがなかった。
私は、千景の芸に見惚れていたのではない。
千景その人に、どうしようもなく惹かれていたのだ。
あの綺麗な横顔。
芸に打ち込む真剣な眼差し。
時折見せる、不器用な優しさ。
名前を呼ぶ時の声。
私だけに向けられる、あの静かな熱。
舞台の上で、『八重垣姫』が想う男の名を胸に秘めるように、私もまた、たった一人の名を、五年ものあいだ胸の奥にしまい込んでいた。
「こんなん……今、気づきとうなかった……」
知らなかったふりをしていただけだ。
兄妹なのだから、と言い聞かせて、見ないふりをしてきただけだ。
届くはずがないのだからと、自分の気持ちの方を小さく折り畳んで、なかったことにしてきただけだ。
けれど今、目の前にいる『八重垣姫』は、その逃げ道を全部塞いでしまう。
恋している。待っている。
届かないかもしれなくても、それでも想っている。
その姿が、あまりにも痛いほどよくわかった。
わかってしまうのは、同じものを胸に抱えているから。
誰にも言えず、言ったところでどうにもならず、それでも消えてくれないものを抱えているからだ。
気づけば、頬にあたたかいものが伝っていた。
慌てて袖で拭う。
舞台袖で泣くなんて、あまりにもみっともない。
けれど涙は止まらなかった。
拭っても拭っても次がこぼれて、袖口が少しずつ湿っていく。
誰にも見られませんように、と願うのに、そんな願いとは別のところで胸の奥は壊れたまま。
手はいつも通り動いているのに、心だけがひどく遠い。
足元は確かにこの劇場の板の上にあるのに、自分だけが薄い膜の向こう側に取り残されているような心地がした。
『婚約』
その二文字が、胸の奥に沈んだまま、少しも動かない。
『おめでとうございます』
そう言った。
ちゃんと言えた。
訛りもなく、声も震えず、笑ってさえみせた。
あれでよかったのだ。
ああ言うしかなかったのだと、頭ではわかっている。
わかっているのに、どうしてこんなにも息が苦しいのだろう。
胸の真ん中に冷たい石でも入れられたみたいに、呼吸をするたび鈍く重い。
やがて、開幕を知らせる柝の音が響いた。
舞台袖に立つ。
ここからなら、客席のざわめきも、舞台へ向かう張りつめた空気も、両方がよくわかる。
白粉の匂い、衣裳の布が擦れる音、息を潜める人の気配。
幕の向こうへ押し出される直前の熱が、肌にじかに触れてくる。
東城院家の御曹司でも、兄でもない。
ここに現れるのは、東條千之助。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく静かになった。
婚約という言葉も、瑠璃子の振袖も、薫子の笑顔も、いったん遠のく。
今だけは、ただ舞台だけを見ればいいのだと、自分に言い聞かせることができた。
幕が上がる。
現れた『八重垣姫』に、息を呑んだ。
綺麗だと思った。
それはもう、稽古の時から今日まで、何度も思ってきたことだ。
千景はただ立っているだけでも目を引く人だったし、女方の稽古を重ねるほど、その美しさは曖昧なものではなく、確かな形を持ちはじめていた。
それが拵えによって完璧な『八重垣姫』になったのなら、よりいっそう美しくなるのなんて、わかっていたのに。
千之助の『八重垣姫』は、それだけではなかった。
ただ美しい姫ではない。
待っている女。
祈っている女。
想う人のために、心の内を抱きしめたまま、じっと立っている女。
華やかな衣裳の中に、誰にも見せられない切実さをきちんと隠している。
その隠し方まで美しい。
視線をひとつ落とすだけで、胸の内が見える。
わずかに息をつく間で、言葉にできない想いが伝わってくる。
袖を押さえる指先にまで、恋が宿っていた。
恋をしている女の、どうしようもない慎ましさと熱が、その指の置き方ひとつに滲んでいた。
知らず知らずのうちに、袴の折り目を握る手に力が入る。
指先が白くなるほど握っているのに、そのことにしばらく気づかないほどに。
ああ、と胸の奥で何かが崩れる。
「兄さん……えらい、お綺麗や……」
そうだ。
私が惹かれていたのは、ただ千景の芸だけではない。
稽古に打ち込む横顔。
役をつかめず、何度打ちのめされても立ち上がる目。
淡々としているのに、歌舞伎の話になると声の奥にだけ熱が灯ること。
私の言葉を、誰より真剣に受け取ってくれたこと。
東城院の屋敷で、私の持つものを初めて財産だと言ってくれたこと。
学校を失ったあとも、私の言葉が死ぬのを見たくないと言ってくれたこと。
その全部を、ずっと見てきた。
見ないふりをしながら、ちゃんと見てきた。
舞台の上の『八重垣姫』は、恋をしていた。
そしてそれを見ている私も、もう誤魔化しようがなかった。
私は、千景の芸に見惚れていたのではない。
千景その人に、どうしようもなく惹かれていたのだ。
あの綺麗な横顔。
芸に打ち込む真剣な眼差し。
時折見せる、不器用な優しさ。
名前を呼ぶ時の声。
私だけに向けられる、あの静かな熱。
舞台の上で、『八重垣姫』が想う男の名を胸に秘めるように、私もまた、たった一人の名を、五年ものあいだ胸の奥にしまい込んでいた。
「こんなん……今、気づきとうなかった……」
知らなかったふりをしていただけだ。
兄妹なのだから、と言い聞かせて、見ないふりをしてきただけだ。
届くはずがないのだからと、自分の気持ちの方を小さく折り畳んで、なかったことにしてきただけだ。
けれど今、目の前にいる『八重垣姫』は、その逃げ道を全部塞いでしまう。
恋している。待っている。
届かないかもしれなくても、それでも想っている。
その姿が、あまりにも痛いほどよくわかった。
わかってしまうのは、同じものを胸に抱えているから。
誰にも言えず、言ったところでどうにもならず、それでも消えてくれないものを抱えているからだ。
気づけば、頬にあたたかいものが伝っていた。
慌てて袖で拭う。
舞台袖で泣くなんて、あまりにもみっともない。
けれど涙は止まらなかった。
拭っても拭っても次がこぼれて、袖口が少しずつ湿っていく。
誰にも見られませんように、と願うのに、そんな願いとは別のところで胸の奥は壊れたまま。



