「あら、弥生さん。どこに行ったかと思ったら」
「もう、こんな日までそんな恰好で」
鴇子と薫子の声で、はっと我に返る。
「ごめんなさいね綾小路様。西とこちらとでは作法が違うようでして」
「お母様、仕方ないわよ。だって弥生さんですもの」
「そうね一応紹介するわ。こちら、綾小路瑠璃子さん。千景さんとご婚約される方よ」
婚約……誰と誰の、なんて考えるまでもない。
浄瑠璃という演目に『本朝廿四孝』。
後援会からヒロインである『八重垣姫』の大役に千景を指名した。
そして、御贔屓の綾小路家の瑠璃子という名前。
ばらばらだったものが、一気に一本の線でつながっていく。
今日の正装。
薫子の振袖。
そして、自分だけが何も知らされないまま、いつもの袴で先に劇場へ寄越されたこと。
私は、最初から外に置かれていたのだ。
祝う側でもなく、並ぶ側でもなく、ただ舞台裏で動く側として。
先に劇場へ寄こされたのも、手伝いが必要だったからだけではないのだと、ようやくわかった。
最初から、東城院の身内として、立たせるつもりがなかったのだ。
敢えて、この並びの外にいる者として、私を配置した。
「本当。瑠璃子さんのような方が、お義姉様になるなんて嬉しいわ」
「まあ、薫子さんったら」
薫子は私から目を逸らさないまま、見せつけるように瑠璃子の腕を取った。
その言葉を素直に受け取る瑠璃子の美しい笑み。
誰もおかしなことなど言っていない。
それなのに、そこに私の入る隙だけが綺麗になくなっていた。
僅かに、視線を感じて顔を上げると、千景がこちらを見ていた。
私の袴姿に、目が留まる。
ほんの一瞬、眉が寄った。
たぶん、その一瞬で察したのだ。
私が何も知らされていなかったことも、どうしてこの格好のままここにいるのかも。
けれど千景は何も言わない。
言えるわけがないのだろう。
今日という日、この場、この人の多さでは。
千景が何かひとつ言えば、それだけでこの場の空気は変わってしまう。
そういう日の、そういう場所に他ならない。
代わりに、その目だけが少しだけ痛そうに揺れた。
指先の震えを隠すように盆を持ち直し、ゆっくり歩み寄る。
一礼して、なるべく何でもない顔を作る。
指先は冷えているのに、顔だけがうまく笑っているのが自分でもわかった。
泣くほどのことではないはず。妹として、兄の婚約を祝うのは当然のこと。
どこかで必死に自分に言い聞かせながら。
「兄さん」
千景の喉が、わずかに動く。
「弥生……」
「ご婚約、本当におめでとうございます」
自分でも驚くほど、綺麗な標準語だった。
京都を出て五年。
初めて、一切の訛りのない言葉が口から出た気がした。
昔から何度も直そうとして、うまくいかなかったのに。
こんな時だけ、するりと抜ける。それがいっそう残酷だった。
千景の目が、はっきりと揺れる。
たぶん、気づいたのだ。
これが私のいちばん遠い声で、いちばんよそゆきの声だということに。
もうこれ以上近づかないための、たった一言だということに。
微笑んだまま頭を下げた。
それが今の私にできる、精一杯。
盆の上の茶碗が、かすかに触れ合って鳴る。
小さな音なのに、胸の中ではひどく大きく響いた。
まるで、何かが静かにひび割れる音みたいだった。
「もう、こんな日までそんな恰好で」
鴇子と薫子の声で、はっと我に返る。
「ごめんなさいね綾小路様。西とこちらとでは作法が違うようでして」
「お母様、仕方ないわよ。だって弥生さんですもの」
「そうね一応紹介するわ。こちら、綾小路瑠璃子さん。千景さんとご婚約される方よ」
婚約……誰と誰の、なんて考えるまでもない。
浄瑠璃という演目に『本朝廿四孝』。
後援会からヒロインである『八重垣姫』の大役に千景を指名した。
そして、御贔屓の綾小路家の瑠璃子という名前。
ばらばらだったものが、一気に一本の線でつながっていく。
今日の正装。
薫子の振袖。
そして、自分だけが何も知らされないまま、いつもの袴で先に劇場へ寄越されたこと。
私は、最初から外に置かれていたのだ。
祝う側でもなく、並ぶ側でもなく、ただ舞台裏で動く側として。
先に劇場へ寄こされたのも、手伝いが必要だったからだけではないのだと、ようやくわかった。
最初から、東城院の身内として、立たせるつもりがなかったのだ。
敢えて、この並びの外にいる者として、私を配置した。
「本当。瑠璃子さんのような方が、お義姉様になるなんて嬉しいわ」
「まあ、薫子さんったら」
薫子は私から目を逸らさないまま、見せつけるように瑠璃子の腕を取った。
その言葉を素直に受け取る瑠璃子の美しい笑み。
誰もおかしなことなど言っていない。
それなのに、そこに私の入る隙だけが綺麗になくなっていた。
僅かに、視線を感じて顔を上げると、千景がこちらを見ていた。
私の袴姿に、目が留まる。
ほんの一瞬、眉が寄った。
たぶん、その一瞬で察したのだ。
私が何も知らされていなかったことも、どうしてこの格好のままここにいるのかも。
けれど千景は何も言わない。
言えるわけがないのだろう。
今日という日、この場、この人の多さでは。
千景が何かひとつ言えば、それだけでこの場の空気は変わってしまう。
そういう日の、そういう場所に他ならない。
代わりに、その目だけが少しだけ痛そうに揺れた。
指先の震えを隠すように盆を持ち直し、ゆっくり歩み寄る。
一礼して、なるべく何でもない顔を作る。
指先は冷えているのに、顔だけがうまく笑っているのが自分でもわかった。
泣くほどのことではないはず。妹として、兄の婚約を祝うのは当然のこと。
どこかで必死に自分に言い聞かせながら。
「兄さん」
千景の喉が、わずかに動く。
「弥生……」
「ご婚約、本当におめでとうございます」
自分でも驚くほど、綺麗な標準語だった。
京都を出て五年。
初めて、一切の訛りのない言葉が口から出た気がした。
昔から何度も直そうとして、うまくいかなかったのに。
こんな時だけ、するりと抜ける。それがいっそう残酷だった。
千景の目が、はっきりと揺れる。
たぶん、気づいたのだ。
これが私のいちばん遠い声で、いちばんよそゆきの声だということに。
もうこれ以上近づかないための、たった一言だということに。
微笑んだまま頭を下げた。
それが今の私にできる、精一杯。
盆の上の茶碗が、かすかに触れ合って鳴る。
小さな音なのに、胸の中ではひどく大きく響いた。
まるで、何かが静かにひび割れる音みたいだった。



