梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

「いつまで寝てるんですか。お客様のつもりですか」

まだ日も昇りきる前、女中の声が四畳半の部屋に響いた。

「え……あ、おはようございます」
「すぐに厨房にいらしてくださいね!」
「あ……」

突然のことに驚きながら返した私の言葉は、最後まで聞いてもらえなかった。
ぴしゃり、ときつい音を立てて襖が閉まるのを、私はしばらく、呆然と見つめていた。

「……なんや、あれ」

寝起きの頭でも、「お客様のつもりですか」という言葉だけは、いやにはっきりわかった。
ここでは私は娘ではあっても、客ではいられないのだろう。
朝から何かやることがあるのだと思い、慌てて袴に着替える。

厨房に呼ばれたのなら、たぶん料理の手伝いだ。
襷で袖を止め、まだ慣れない廊下に出る。
どこがどこだかわからない屋敷の中を、わずかに漂う米の匂いだけを頼りに。

廊下は朝の冷えを抱えたままで、足袋越しにも板の冷たさが伝わってくる。
障子の向こうでは、もう何人もの人が動いている気配がした。
ここでは、私だけが遅いのだ。

「失礼します」

たくさんの部屋を通り過ぎ、ようやく見つけた厨房の暖簾を手で避ける。
中にはたくさんの食器が並び、大きな鍋がぐらぐらと煮立っていた。
湯気とお米の匂い、忙しなく行き交う足音。朝の台所は、もう戦場みたいだった。

「ぼうっとしてないで、お味噌汁のお出汁でもとってもらえませんかね!?」
「あ……はい」

初めて入る厨房、何がどこにあるのかもわからない。
戸惑いながら辺りを見回し、恐る恐る口を開く。

「すんまへん、お昆布は、どこにありますやろ」
「昆布!?この家の台所で、西の味でも覚えさせる気ですか!」

きつい声が、鍋の蓋を叩く音より鋭く飛んできた。
西と東で、お出汁が違うというのは聞いたことがある。
けれど、たったそれだけのことで、こんなにも空気が冷たくなるとは思わなかった。

「あ……すんまへん」

それ以上は、何も言えなくなる。

結局、その日はお出汁どころか、食材に触ることすらできなかった。
ただひたすら食器を出し、食事を運び、言われたものを動かすだけで終わる。
邪魔にならないように動くことばかり考えていたら、あっという間に朝が終わっていた。

こうして始まった、梨園の屋敷での生活。

朝は早かった。
使用人たちよりほんの少し遅い時間に起き、顔を洗って着替える。
朝食前には、廊下と自分の部屋を掃除する。
それが、女主人である鴇子から最初に言い渡されたことだった。

「あなたの部屋は、あなたが管理しなさい。使用人に頼まないように」

その言葉は静かだったけれど、拒まれていることはよくわかった。

それだけではない。
食後の食器を片付けることも、洗濯物を取り込むことも、庭に干した布巾を回収することも、少しずつ私の仕事になっていった。

「それと、二階には決して上がらないように」

二階には、私以外のこの家の人間の部屋がある。
つまりは『お前はこの家の人間ではない』そういうことなんだろう。

最初から、はっきり命じられたわけではない。
私が何かをしようとすると使用人がすっと引くか、気づかずにいるとあとから鴇子に小言を言われるか、そのどちらか。
そうやって、気づけば役割だけが置かれている。
断ることも、戸惑うことも許されないまま、いつの間にかそれが当たり前になっていった。