劇場へ着くと、裏はすでに人であふれていた。
大道具が運び込まれ、衣装箱が行き交い、楽屋では誰かの名を呼ぶ声が飛ぶ。
白粉の匂い、湯の立つ匂い、木と布の匂いが入り混じって、舞台裏だけの熱気になっていた。
包みを言われた先へ届け、そのまま流れに押されるように茶の支度や小物の受け渡しを手伝う。
湯を沸かし、急須を洗い、茶碗を揃える。
頼まれれば返事をして、すぐに動く。
そうしているあいだは、不思議と余計なことを考えずに済む。
手を動かしている限り、自分が何者なのかも、どこに立っているのかも、考えなくてよかった。
けれど、ふと手を止めた時、今朝の薫子の姿が頭をよぎる。
振袖。
普段から、薫子は私なんかより、よっぽど上等な着物を着て、身嗜みにも気を使っている。
けれど、今日のあれは、ただの晴れ着ではなかった気がした。
「弥生さん、こちらへお茶を」
「はい」
盆を持って廊下を曲がりかけた、その時。
ざわ、と空気が揺れた。
劇場の裏口から、私を除いた、東城院家の一行が入ってくるのが見えた。
先頭に立つのは宗景と鴇子。
紋付き袴を着た宗景と、深い色合いの訪問着に身を包んだ鴇子。
いかにも今日が特別な日だとわかる装いをしている。
その少し後ろに、振袖姿の薫子。
朝見た時より、さらに華やいで見えた。
家から劇場へ移っただけなのに、もうその輪の中にいる人間の顔になっている。
その一行の中心に、千景がいた。
まだ白塗りはしていない。
けれど、黒の紋付袴に身を包んだ姿は、いつもの稽古着姿よりずっと遠かった。
東城院家の御曹司である東條千之助が、そこにいた。
初日に立つ役者の顔と、家の名を背負う息子の顔が、同じひとつの姿の中に綺麗に収まっていた。
そして、その隣にいる女性を見た瞬間、足が止まった。
瑠璃色を基調にした見事な振袖を着た、いかにもご令嬢といった風情の女性。
金糸の刺繍が灯りを受けてきらきらと光り、帯も、髪も、爪先まで、何ひとつ隙がない。
誰が見ても、今日の場にふさわしい客人。
いや、客人というだけではない。こういう日にあの人の隣に並ぶことを、最初から許されている人の姿。
思わず、自分の姿に目を落とす。
地味な袴。少し汚れている履き潰したブーツ。
働くための格好。
袖は襷で留めてたくし上げ、帯も簡素に締めている。
誰よりも、祝う側ではなく、働く側の姿だった。
今この場でいちばん似合わないのは、たぶん私だと思った。
胸の奥で、何かが静かに冷えていく。
先頭を歩く宗景が、たくさんの人に囲まれているのを、ぼんやり眺めていると、近くにいた関係者の声が聞こえた。
「綾小路様にも、これでようやく安心していただけますな」
「ええ。千之助さんの初日に、こうしてお顔をお見せいただけるとは」
「ご婚約のお話も、これでますます確かなものになりましょう」
『婚約』
その二文字だけが、やけにはっきり耳に残り、お盆を持ったまま、動けない。
耳の奥で、その言葉だけが何度も反響する。
大道具が運び込まれ、衣装箱が行き交い、楽屋では誰かの名を呼ぶ声が飛ぶ。
白粉の匂い、湯の立つ匂い、木と布の匂いが入り混じって、舞台裏だけの熱気になっていた。
包みを言われた先へ届け、そのまま流れに押されるように茶の支度や小物の受け渡しを手伝う。
湯を沸かし、急須を洗い、茶碗を揃える。
頼まれれば返事をして、すぐに動く。
そうしているあいだは、不思議と余計なことを考えずに済む。
手を動かしている限り、自分が何者なのかも、どこに立っているのかも、考えなくてよかった。
けれど、ふと手を止めた時、今朝の薫子の姿が頭をよぎる。
振袖。
普段から、薫子は私なんかより、よっぽど上等な着物を着て、身嗜みにも気を使っている。
けれど、今日のあれは、ただの晴れ着ではなかった気がした。
「弥生さん、こちらへお茶を」
「はい」
盆を持って廊下を曲がりかけた、その時。
ざわ、と空気が揺れた。
劇場の裏口から、私を除いた、東城院家の一行が入ってくるのが見えた。
先頭に立つのは宗景と鴇子。
紋付き袴を着た宗景と、深い色合いの訪問着に身を包んだ鴇子。
いかにも今日が特別な日だとわかる装いをしている。
その少し後ろに、振袖姿の薫子。
朝見た時より、さらに華やいで見えた。
家から劇場へ移っただけなのに、もうその輪の中にいる人間の顔になっている。
その一行の中心に、千景がいた。
まだ白塗りはしていない。
けれど、黒の紋付袴に身を包んだ姿は、いつもの稽古着姿よりずっと遠かった。
東城院家の御曹司である東條千之助が、そこにいた。
初日に立つ役者の顔と、家の名を背負う息子の顔が、同じひとつの姿の中に綺麗に収まっていた。
そして、その隣にいる女性を見た瞬間、足が止まった。
瑠璃色を基調にした見事な振袖を着た、いかにもご令嬢といった風情の女性。
金糸の刺繍が灯りを受けてきらきらと光り、帯も、髪も、爪先まで、何ひとつ隙がない。
誰が見ても、今日の場にふさわしい客人。
いや、客人というだけではない。こういう日にあの人の隣に並ぶことを、最初から許されている人の姿。
思わず、自分の姿に目を落とす。
地味な袴。少し汚れている履き潰したブーツ。
働くための格好。
袖は襷で留めてたくし上げ、帯も簡素に締めている。
誰よりも、祝う側ではなく、働く側の姿だった。
今この場でいちばん似合わないのは、たぶん私だと思った。
胸の奥で、何かが静かに冷えていく。
先頭を歩く宗景が、たくさんの人に囲まれているのを、ぼんやり眺めていると、近くにいた関係者の声が聞こえた。
「綾小路様にも、これでようやく安心していただけますな」
「ええ。千之助さんの初日に、こうしてお顔をお見せいただけるとは」
「ご婚約のお話も、これでますます確かなものになりましょう」
『婚約』
その二文字だけが、やけにはっきり耳に残り、お盆を持ったまま、動けない。
耳の奥で、その言葉だけが何度も反響する。



