梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

朝から、屋敷の空気がいつもと違っていた。

まだ日が高くなりきる前だというのに、廊下を行き交う女中たちの足音が忙しない。
いつもは静かな奥の間にまで人の出入りがあり、家じゅうにどこか張りつめた気配が満ちていた。
誰も大きな声は出さないのに、襖の開く音ひとつ、盆の触れ合う音ひとつが、今日はやけに鋭く聞こえる。

今日は『本朝廿四孝』の初日。
千景が『八重垣姫』を勤める最初の日なのだから、慌ただしいのも当然なのだろう。

そう思いながら、自分の部屋で袴の紐を結ぶ。
鏡台もない簡素な部屋で、襟元だけを指先で整えていると、障子の向こうで足音が止まった。

「弥生さん、入ってもいいかしら?」
「はい」

薫子の声に障子を開けると、そこに立つ姿に思わず息を呑んだ。

淡い桃色の振袖。
裾には季節の花が細やかに刺繍され、帯は春の光を吸ったみたいにやわらかく輝いていた。
髪にも、今日はきちんと簪が挿してある。
白い襟元から覗く首筋まで、今日はいつもの薫子ではなく、誰かに見られるための艶やかな立ち姿。

同い年の女学生たちより、まだ少し幼いはずなのに、そうして着飾った薫子は、もう立派に『梨園の娘』に見えた。

「……薫子さん、そのお召し物」
「変かしら?」
「いえ、とてもお似合いです」
「そう。よかったわ」

薫子は小さく笑うと、腕に抱えていた包みを私へ差し出した。

「弥生さんは、先に劇場へ行ってくださる?これ、楽屋へ届けてほしいの」
「私が、ですか」
「ええ。今日は皆、忙しいの。お茶の支度も足りていないでしょうし、先に行って手伝ってくださる?」

言われてみれば、そのために呼びにきたのだろう。
薫子の着物に一瞬目を奪われてしまった自分が、少し恥ずかしくなった。

今日は初日だ。
東城院家にとっても大事な日なのだから、私が少しでも役に立てるなら、その方がいい。

「わかりました」
「遅れないように、お願いね」

包みを受け取ると、薫子はそれだけ言って、くるりと裾を返して去っていった。
立ち去る薫子の後ろ姿と、自分の袴を見比べて、それからもう一度、袴の裾を整え直す。

振袖ではなく、いつもの袴。
でも今日は劇場には裏方の手伝いに行くのだから、これでいい。
そう自分に言い聞かせ、包みを抱えて屋敷を出た。