梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

ある日、台所から廊下へ出たところで、自分の名前が聞こえて思わず足を止めた。
盗み聞きのようでよくないと思ったのに、余計に動けなくなる。

「……ねえ、お兄様。最近、弥生さんのこと、気にしてるでしょう」
「だからなんだ?」
「……どうして?」
「家族だから」
「家族、ね」

薫子の声が、少しだけ鋭くなった。

「お兄様が弥生さんを見る目、家族を見る目じゃないわ」

思わず息が止まる。
その先を聞いてはいけない気がしたのに、足は床に貼りついたまま離れない。

「私、気が付いているわ。お兄様が弥生さんと話をする時と、私と話をする時とで、顔も視線も、何もかもが違うわ」
「……薫子」
「言っておくけど、弥生さんは学校も辞めて、友達もいなくて、お兄様だけを頼りにしているように見える。そういう子に優しくして、同情して期待を持たせるのは、悪趣味だわ」
「悪趣味?」
「お兄様には御曹司としての将来があって、何より腹違いの兄妹なのよ。あの子との未来はないでしょう。それなのに優しくするのは、悪趣味以外のなんだというの」

ひとつひとつ、聞きたくなかった言葉ばかりで、胸の奥が、ずきりと痛んだ。
けれど、どれも私がわかっているのに、自分で口にできずにいたことでもある。

「それに、お母様が西の女を迎えることを許すわけがないわ」

その言葉に、ようやく千景が口を開いた。

「……薫子の言いたいことは、わかる」
「だったらっ……」
「お前が、弥生だけではなく、俺のことにも苛ついていることも」
「っ!!わかっているなら、なんであんな人をっ……!」

薫子が、ふっと息を吐く気配がした。

「俺は俺のやりたいようにやる」
「……お兄様、そんなに弥生さんが大切なの?」
「そうかもしれない」
「弥生さんが傷つくわ、最終的に」
「弥生が傷つかないようにするのが、俺の仕事だ」
「いいえ。お兄様が弥生さんを傷つけるのよ」

その一言が、まっすぐ胸の奥へ落ちてきた。

「お兄様はいいわよね。何もしなくても、最初から選ばれていて」

薫子が何かを言いかけて、止まる。

「……お母様に言うわ」
「好きにしろ」
「どうなっても知らないんだから!」

薫子の足音が遠ざかっていく。
私は台所の入り口で、しばらく動けなかった。
寒いわけでもないのに、指先が少し震えている。

薫子は、家の前ではよくできた妹でいた。そう思っていた。
けれど稽古場の前を通る時だけ、時々ひどく険しい目をした。
千景が呼ばれる声。褒められる声。将来を期待される声。

あれがもし、自分が男に生まれていたら向けられていたものかもしれないと……
その思いが、余計に私への敵意を増大させているとしたら。

千景の声が、頭の中で何度も繰り返されていた。

『弥生が傷つかないようにするのが、俺の仕事だ』

その言葉が嬉しいのか、苦しいのか、自分でもわからなかった。
ただ、どちらにしても、もう前みたいには戻れない気がした。