数日後、鴇子に呼ばれた。
部屋に入ると、鴇子はいつものように座ったまま、私を見上げもしなかった。
湯呑を持つ手だけが静かに動いている。
「千景さんと、最近よく話しているそうね」
「……お稽古の話を、少し」
「前もいったけれど、あなたになにがわかるというの。千景さんの芸が荒れたら、どうしてくれるの?」
「……」
「西の女であるあなたに、責任なんて取れないでしょう」
「はい……」
「学校を辞めたんだから、その分、きちんと仕事をしなさい。わかった?」
「はい」
「下がりなさい」
それだけだった。
けれど、ただそれで十分だった。
私は頭を下げて部屋を出ようと下がる。
「これだから、西の女は信用ならないわ」
障子を閉める直前に投げつけられた言葉、そのまま硬直してしまう。
見計らったように薫子が歩いてきて、薫子は私を見ると、勝ち誇ったような顔。
「この家では、御曹司であるお兄様だけが、唯一無二の存在なのよ」
私に向かって、やわらかな声が落ちてくる。
でも、その言葉は私に言っているようにも、自分に言い聞かせているようにも聞こえた気がした。
「……」
「御曹司であるお兄様との未来など、夢見ないことね」
夢?
そんな夢、望んだこともない。
望めるわけもない。
そう思うのに、その言葉だけが胸のどこかに引っかかった。
振り返ることもできず、そのまま通り過ぎるしかない。
千景は、鴇子に何か言われたことを察しているようだった。
翌日の廊下で、いつも通り声をかけてきたのに、その言い方がほんの少しだけ変わっていた。
「稽古を聴いていたか」
「……今日は仕事が立て込んでいて」
「そうか」
そこで千景は少し間を置いた。
何かを選ぶみたいに、短く黙ってから言う。
「前も言った。どんな些細なことでも構わない。思ったことを聞かせてもらえれば、それで十分だ」
廊下ではなく、ここで。
つまり、もう稽古場の近くまで来なくていい、ということだった。
鴇子に何か言われたあとだと、千景もわかっている。
そのうえで、私の負担を減らそうとしてくれていた。
「……はい」
「今日の声は、どうだ」
「……遠くからでも、よう届いてました。前より、音が大きくなったいうより、深うなった気ぃします」
「深く」
「はい。壁を抜けてくる音の質が、少し変わりました」
「……ありがとう」
「いいえ」
千景は少し考えてから、静かに頷いた。
「弥生、お前は今、どうだ」
「……何が」
「何が、ではなく」
私は少し黙った。
何から答えればいいのかわからない。
「……大丈夫です」
「大丈夫、以外の言葉は?」
「……少し、疲れています」
「そうか」
「でも、大丈夫です」
千景は短く頷き、稽古場へ戻っていった。
その背中を見ながら、私は、聞いてもらえた、と思った。
それだけで少し、胸の強張りがゆるむ。
大丈夫ではないとまでは言えなくても、疲れているとは言えた。
たったそれだけのことが、今の私には救いだった。
それからも、薫子の言葉は続いた。
二人きりの時だけではない。
ときには千景がいる場でも、さりげなく落としてくる。
「弥生さんって、学校を辞めてから元気がないわよね。お兄様、気になってるでしょう」
「それに、お兄様はいいわよね。生まれた時から、何もかも用意されていて」
「あなたはいいわよね。お兄様に気にかけてもらえて」
言うことが、私に対しても、千景に対しても棘があるようになってきた。
千景が「そんなことはない」と言えば、私は大丈夫ですと言わなければならない。
千景が黙れば、薫子の言葉だけがその場に残る。
どちらに転んでも、
『元気がない』
『お兄様が気にかけている』
その事実だけが、綺麗に置かれていく。
ひどく巧妙だった。
私には反論できない。
元気がないのは、本当のことだった。
千景が気にかけてくれているのも、本当のことだった。
本当のことを、そのまま言いながら刺してくる。
嘘ではないから否定しづらい。
否定すれば、かえって何かを隠しているように見える。
それが、薫子の静かな武器だった。
部屋に入ると、鴇子はいつものように座ったまま、私を見上げもしなかった。
湯呑を持つ手だけが静かに動いている。
「千景さんと、最近よく話しているそうね」
「……お稽古の話を、少し」
「前もいったけれど、あなたになにがわかるというの。千景さんの芸が荒れたら、どうしてくれるの?」
「……」
「西の女であるあなたに、責任なんて取れないでしょう」
「はい……」
「学校を辞めたんだから、その分、きちんと仕事をしなさい。わかった?」
「はい」
「下がりなさい」
それだけだった。
けれど、ただそれで十分だった。
私は頭を下げて部屋を出ようと下がる。
「これだから、西の女は信用ならないわ」
障子を閉める直前に投げつけられた言葉、そのまま硬直してしまう。
見計らったように薫子が歩いてきて、薫子は私を見ると、勝ち誇ったような顔。
「この家では、御曹司であるお兄様だけが、唯一無二の存在なのよ」
私に向かって、やわらかな声が落ちてくる。
でも、その言葉は私に言っているようにも、自分に言い聞かせているようにも聞こえた気がした。
「……」
「御曹司であるお兄様との未来など、夢見ないことね」
夢?
そんな夢、望んだこともない。
望めるわけもない。
そう思うのに、その言葉だけが胸のどこかに引っかかった。
振り返ることもできず、そのまま通り過ぎるしかない。
千景は、鴇子に何か言われたことを察しているようだった。
翌日の廊下で、いつも通り声をかけてきたのに、その言い方がほんの少しだけ変わっていた。
「稽古を聴いていたか」
「……今日は仕事が立て込んでいて」
「そうか」
そこで千景は少し間を置いた。
何かを選ぶみたいに、短く黙ってから言う。
「前も言った。どんな些細なことでも構わない。思ったことを聞かせてもらえれば、それで十分だ」
廊下ではなく、ここで。
つまり、もう稽古場の近くまで来なくていい、ということだった。
鴇子に何か言われたあとだと、千景もわかっている。
そのうえで、私の負担を減らそうとしてくれていた。
「……はい」
「今日の声は、どうだ」
「……遠くからでも、よう届いてました。前より、音が大きくなったいうより、深うなった気ぃします」
「深く」
「はい。壁を抜けてくる音の質が、少し変わりました」
「……ありがとう」
「いいえ」
千景は少し考えてから、静かに頷いた。
「弥生、お前は今、どうだ」
「……何が」
「何が、ではなく」
私は少し黙った。
何から答えればいいのかわからない。
「……大丈夫です」
「大丈夫、以外の言葉は?」
「……少し、疲れています」
「そうか」
「でも、大丈夫です」
千景は短く頷き、稽古場へ戻っていった。
その背中を見ながら、私は、聞いてもらえた、と思った。
それだけで少し、胸の強張りがゆるむ。
大丈夫ではないとまでは言えなくても、疲れているとは言えた。
たったそれだけのことが、今の私には救いだった。
それからも、薫子の言葉は続いた。
二人きりの時だけではない。
ときには千景がいる場でも、さりげなく落としてくる。
「弥生さんって、学校を辞めてから元気がないわよね。お兄様、気になってるでしょう」
「それに、お兄様はいいわよね。生まれた時から、何もかも用意されていて」
「あなたはいいわよね。お兄様に気にかけてもらえて」
言うことが、私に対しても、千景に対しても棘があるようになってきた。
千景が「そんなことはない」と言えば、私は大丈夫ですと言わなければならない。
千景が黙れば、薫子の言葉だけがその場に残る。
どちらに転んでも、
『元気がない』
『お兄様が気にかけている』
その事実だけが、綺麗に置かれていく。
ひどく巧妙だった。
私には反論できない。
元気がないのは、本当のことだった。
千景が気にかけてくれているのも、本当のことだった。
本当のことを、そのまま言いながら刺してくる。
嘘ではないから否定しづらい。
否定すれば、かえって何かを隠しているように見える。
それが、薫子の静かな武器だった。



