梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

薫子が何かに気づき始めたのは、この頃のことだったのだと思う。

正確には、ずっと前から見ていたのだろう。
ただ、見ていたものの意味が変わった。

それまでの薫子の嫌がらせは、私を邪魔者として追い払おうとするもの。
芸妓の娘が東城院に来るな。西の女を追い出さなければ。という、わかりやすい拒絶。
着物を汚す。物を隠す。鴇子に告げ口をする。
そういう、子どもらしいやり方だった。
子どもらしいのに、受ける痛みだけはちゃんと痛かった。

けれど、ある時を境にそれが変わった。
ただ私を困らせるのではなく、私と千景の間に、細く鋭利な刃を差し込み、突き立てようとするようになった。

最初に気がついたのは、縁側でのことだった。
千景が稽古から戻り、廊下で私に声をかけてきた時。

「今日の稽古はどうだっただろうか。と聞きたいところだけれど、廊下から聴こえていたか」
「はい。三の場面の声の入り方が、少し変わっていました」
「どう変わった?」
「前より間が短くなって。でも、急いている感じはなくて。呼吸が変わったのかもしれないです」

千景が少し目を細めた。
無自覚だろうか、千景が嬉しいと感じた時にする仕草。
その表情を見ると、私は少し嬉しくなる。
言葉が少なくても、この人にちゃんと伝わったのだとわかる、その一瞬が好きだった。

その瞬間を、薫子が廊下の角から見ていた。

その時は気づかなかった。
でもあとになって思い返せば、あの時、薫子の目の色が変わっていた。
あそこから、何かが動き始めたのだと思う。

翌日から、薫子のやり方は変わった。
廊下で千景と話しているところへ割り込んでくるのは前からあった。
けれど今度は、もっと直接的に私を狙ってきた。

「ねえ、弥生さん。学校のお友達から連絡は来た?」
「……いいえ」
「そう。まあ、いてもいなくても変わらないものね」

薫子は花を生けながら、こちらを向きもせずに言う。
花の茎を切る鋏の音だけが、やけに小さく響いた。

「友達ができていたなら、わざわざ辞めるって話にもならなかったんじゃないかしら。倒れるまで無理をするって、よほど孤独だったのかしらね」
「……」
「学校って、楽しかった?行っていた間」
「……普通、でした」
「そう。私は学校、好きよ。お友達もいるし、先生も優しいし。ああ、ごめんなさい。弥生さんはもう行けないのよね」

薫子の声は、優しく、楽しげに喋る。
怒っているわけでもない。嘲っているようにも聞こえない。
それなのに、言葉だけが綺麗に刺さってくる。

「……はい」

それだけ言って、手を動かし続けた。
返したところで、何も変わらないとわかっていたからだ。

以前は、使用人の前では隠していたけれど、この時にはもう隠す気はなくなっていた。

「弥生さん、お兄様とまた廊下で話していたの?」
「……少し」
「ふうん。お兄様って、誰にでも優しいのよね。学校を辞めて、一人ぼっちの弥生さんを気にかけてあげてるんでしょう」

使用人の女性が、ちらりとこちらを見た。

「でもね、弥生さん。お兄様は御曹司なのよ。気にかけてもらえるからって、頼りすぎてはいけないわ。あの人には将来があるんだから」
「……わかっています」
「わかってる?本当に?」

薫子は首を傾けた。
責めるような言い方ではない。心配しているふうに見える声だった。

「学校も辞めて、友達もいなくて、頼れる人がお兄様しかいないとしたら、どうしても頼ってしまうのはわかるけど。でも、それってお兄様にとっては迷惑じゃないかしら」
「……」
「あぁ!学校を辞めたことも、お兄様の同情を引く作戦かしら?」
「!そんなっ……!」

また、使用人の女性が目を向けてきた。
その視線が刺さる前に、私は黙って頭を下げ、その場を離れた。
立ち止まれば、もっと何か言われる気がした。

廊下に出て、一人になって、ようやく息を吐く。
胸の奥が、じわじわ冷えていくのがわかった。

薫子のやり方は巧妙だった。
怒鳴ったり、物を壊したりするわけではない。
誰かが見ているところで、優しい声で、でも確実に私の居場所を削っていく言葉を置いていく。

「お兄様の負担になっている、自覚はないのかしら」
「はぁ。東城院はいつになったら家族水入らずになるのかしら」

言われたその場だけで終わらない。
使用人の耳に入る。使用人の口にのる。やがて鴇子の耳に入る。
そうやって形を変えながら広がっていく。

私はもう、その仕組みを知っていた。
だからこそ、反論できない。
ひとつ言い返せば、そのひとつがまた別の言葉になって返ってくる。
静かに、綺麗に、逃げ場をなくすように。

薫子は、もうただ私に意地悪がしたいのではない。
私を東城院から追い出したいだけでは足りない、千景のそばから遠ざけたいのだと、その頃にはさすがの私にもわかり始めていた。