梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

また言え。
その一言が、胸の奥に静かに落ちた。

「……はい。ほな、遠慮なく言わせてもらいます」
「ああ。それでいい」

稽古場にはもう音はない。
けれど、これから生まれるはずの『八重垣姫』の気配だけが、そこに薄く満ちているような気がした。

「謝るな。続きを聞かせろ」
「さっきも言いました。綺麗なのは、もう十分なんです。兄さんは、何もせんでも綺麗やから」
「弥生」
「せやから、その先が見たいんです。『八重垣姫』が、誰を想って、何を願うてるのか。そこが見えたら、きっと皆、目ぇ離せへんようになります」

言いながら、胸の奥が少しだけ苦しくなった。

誰を想って、何を願うのか。
そんなこと、私だって知っている。
口にしないだけで、心の中にはずっとある。
言わないようにしているだけで、消えたことなんて一度もない。

「きっと、板の上で兄さんが演じる『八重垣姫』に、みんなが恋しはります」

千景はしばらく黙っていた。
稽古場の外で、誰かが廊下を歩く音が遠く、かすかにした。
けれど、この場所だけは妙に静かだった。
さっきまで満ちていた稽古の熱まで、息を潜めてこちらを見ているみたいに思える。

やがて千景が、ぽつりと言った。

「お前は、俺が『八重垣姫』をやるのを見たいか」
「見たいです。見たいに決まってます」
「そうか」
「兄さんの『八重垣姫』、きっと誰より綺麗です」

迷いなく答えると、千景の喉がわずかに動いた。

「それだけか」
「え?」
「綺麗、だけか」

その問いの意味が、一瞬わからなくて、目を瞬く。

けれど千景は、それ以上は何も言わない。
代わりに、扇を畳んで脇へ置くと、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
白い稽古着の袖から、まだ熱の残る腕が覗いている。
さっきまで役の中にいた人が、そのままこちらへ来るような歩き方だった。

「だったら、ちゃんと見ていてくれ」
「……はい」
「お前にそう言われた以上、半端なものは見せられない」

稽古の後、低くて少し掠れている声。
そう言って、千景は私の頭をぽんと軽く撫でた。

いつものように淡々としているのに、その奥だけが静かに熱い。
なのに、わずかに甘さを感じてしまう。

一瞬のこと。
でも、それだけで心臓が跳ねるには十分すぎた。
頭のてっぺんから、遅れて熱が落ちてくる。
雑巾を持つ手にまで、変な力が入った。

「に、兄さん」
「何だ」
「……今のは……」
「ん?」

本気でわかっていない顔をしている。
その顔が悔しいくらい整っていて、余計に困る。
そんな顔で見返されたら、こっちばかりが勝手に心を乱されているみたいで。

「なんでもありません」

そっぽを向くと、千景がまた小さく笑った気配がした。
からかうような笑い方ではない。
ほんの少し、機嫌がよさそうな気配。

「弥生」
「はい」
「『八重垣姫』が決まって、最初に喜んでくれたのがお前でよかった」

その言葉に、今度こそ何も返せなかった。

胸の奥に、あたたかいものがじわりと広がっていく。
この屋敷で、こんなふうに誰かと一緒に何かを喜べる時間があるなんて、ここへ来たばかりの頃は思いもしなかった。
嬉しい、という気持ちが、痛いくらいまっすぐ胸の真ん中に来る。

稽古場の窓から、月明りの光が細く差し込んでいた。
その光の中に立つ千景の横顔は、まだ白塗りも鬘もないのに、もう舞台の上の人みたいに見える。
けれど今、私の前にいるのは、東城院家の御曹司でも、未来の名跡でもなく、ただの千景だった。
稽古の熱をまだ肩に残したまま、私だけに言葉を返してくれる人。

私は濡れた雑巾を握りしめたまま、そっと笑った。

「初日、楽しみにしてます」
「ああ」
「誰より、よう見ときます」
「頼む」

その短い返事が、どうしようもなく嬉しかった。

たぶんこの時の私は、まだ知らなかった。
その初日を、こんなふうに穏やかな気持ちで待てるのが、最後になることを。
この静けさが、このままずっと続くわけではないことを。