梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

「今日から、『本朝(ほんちょう)廿四孝(にじゅうしこう)』のお稽古に入らはったんですね」

気がつけば、千景の稽古が終わってから、私が稽古場を拭き上げるまでのわずかな時間、人目を忍ぶように二人きりで言葉を交わすのが日課になっていた。

「ああ。後援会からの指名だ」

千景はそう言って、汗を拭う手を止めた。
床には、つい先ほどまで稽古に使っていた扇が置かれている。
稽古は終わったはずなのに、まだ空気の中には張りつめたものが残っていた。
三味線も笛も鳴っていない。
なのに、さっきまでここに満ちていた音の名残だけが、耳の奥に薄く残っている気がする。

「後援会から、ですか」
「うちの後援筋の中でも、かなり力のある家らしい。『八重垣姫(やえがきひめ)』を俺に、と」

『八重垣姫』。

その名を聞いた瞬間、思わず息を呑んだ。

「すごいやないですか!」

自分でも驚くほど、声が弾んだ。
梨園の家に引き取られて五年。
嫌でも歌舞伎のことには詳しくなった。

その中でも、『八重垣姫』は特別だ。
歌舞伎にそう詳しくない人でも、その名くらいは知っている。
姫役の中でもひときわ華やかで、格があって、ただ美しいだけではなく、恋の熱まで見せる大役。

千景のような、ただ綺麗なだけでは終わらない役者が演じたら。
そう思っただけで、胸が高鳴ってしまう。

「そんなにか」
「そんなに、です。だって『八重垣姫』やなんて……」

私は雑巾を絞る手も止めたまま、千景を見上げた。

「兄さんに、よう似合います。絶対、ぴったりです」
「似合う、か」
「はい。きっと、ものすごう綺麗です」

言ってから、少しだけ頬が熱くなった。
本人を前にして、綺麗だなんて、あまりにもそのまますぎる。
けれど千景は、からかうことも笑うこともしなかった。
ただ、ほんの少しだけ嬉しそうな表情を浮かべるだけ。

「お前にそう言われると、悪い気はしないな」
「ほんまのことやもの」

思わずそう返してしまい、また自分で恥ずかしくなる。
けれど千景は、珍しくやわらかい顔をしていた。

「『八重垣姫』は、ただ綺麗なだけでは足りないそうだ」
「ええ」
「師匠も、形ばかり整っても意味がないと」
「そうやと思います。姫やからいうて、ただ大事に育てられたお人形みたいではあかんのでしょうね」
「……」
「恋をして、祈って、迷うて、それでも決めたら動く人やから」

千景が、私の言葉を繰り返す。

「祈って、迷って、それでも動く、か」
「はい。お姫さんやけど、黙って守られてるだけの人やない気ぃします」

『八重垣姫』の名を口にしているだけなのに、胸の奥まで熱くなる。
恋に身を投げる姫。
でもただ可憐なだけではない。願って、耐えて、それでも自分で一歩を踏み出す女。

千景がそれを演じたら、きっと綺麗だ。
綺麗で、それだけやのうて、見ている方が息を呑むような熱を帯びるはずだ。
その姿が鮮明に目に浮かぶ。

「お前の言い方は、やっぱり面白い」
「また、そんなこと」
「いや。本当にそう思っている」

千景は扇を拾い上げ、指先で軽く回した。
その手つきにまで、もう次の役のことを考えている気配がある。

「『八重垣姫』は、恋する姫だ」
「はい」
「だったら、ただ姫らしく美しいだけでは足りない。恋している女の、熱が要る」
「そうです」

今度は迷わず言えた。

「兄さんは、綺麗に見せようとしすぎる時があります」
「……またずいぶん、遠慮がないな」
「すみません」

慌てて頭を下げると、千景は小さく息を漏らした。
笑ったようにも聞こえた。

「でも、続けろ」
「え」
「そういうのが欲しくて、お前に聞いている」

顔を上げると、千景はもう笑っていなかった。
真面目な目で、まっすぐこちらを見ていた。

「『八重垣姫』は、綺麗に見えればいい役ではない。恋で心が動いて、その動きがそのまま姿に滲まなきゃいけない」
「……はい」
「俺が形に寄りすぎたら、また言え」