その言葉に押されるようにして、数日後から私はまた、稽古場近くの廊下を通るようになった。
千景に言われたから、というだけではない。
ほんとうは、音を聴きたかった。
廊下の向こうから三味線が鳴ると、自然と足が止まる。
千景の声が聞こえると、その高さも、響きも、間も、頭の中にそっと写し取った。
音を追っているあいだだけは、息がしやすかった。
聴き馴染んだ三味線の音と、千景の声。
その重なりが、不思議なくらい心を落ち着かせてくれる。
屋敷の中で削れていくものが、そこだけは静かにもとの形へ戻っていく気がした。
「聴いていたか」
「はい」
「どうだった」
少し考えてから答える。
「今日の声は、昨日より前へ走ってしまっていました。昨日の方が、深かった気ぃします」
「昨日の方がいい、ということは今日は浅い?」
「浅い、というより、広がる方向が違うんやと思います。昨日は下へ深う沈んで、今日は横へ広がっていく感じで。どっちがええ悪いではない思うんですけど、今の役には昨日の方が合う気ぃします」
「……なるほど」
千景は少し考えてから、静かに頷いた。
「わかった。今日は気が散っていた」
「何か、ありましたか」
「弥生のことが少し気になっていた。体の具合……いや、違うな……」
「え」
「どこかで、弥生が聴いてくれているのかが、気になった」
何も言えなかった。
それは、まるで私に聴いてもらうのを望んでいると言われているようで。
「だから声が散った。乗るべき間に、うまく乗り切れなかった」
「……兄さん」
「なんだ」
「うちのことは、気にせんといてください」
「気にしないことはできない」
きっぱり言い切って、千景は屋敷の奥へ歩いていく背中を見送る。
私のことが気になって、声が散った。
その意味が、自分の思った通りのものかどうかはわからない。
わからないのに、胸の中では、嬉しさと申し訳なさが一緒くたになって静かに波立っていた。
学校はなくなった。
けれど、稽古の声は残っていた。
千景が声をかけてくれることも、廊下から音を聴く時間も残っていた。
それが今の私の場所だった。
『はい』しか言えない日もある。
仕事に追われて、ほんとうに声が死にそうになる日もある。
それでも、千景の稽古の音を聴くたびに、自分の中の言葉が少しずつ戻ってくるようで。
耳の奥でほどけて、胸の中で息をし直すみたいに。
お互い、相手を責めなかった。
お互い、自分の方が悪かったのだと思いながら、それでも離れずにいた。
近づき方はひどくゆっくりだった。
でも確かに、昨日より今日、今日より明日と、少しずつ距離は縮まっていった。
急に何かが変わるのではなく、気づけば前より近くに立っている、そんな縮まり方。
まだ名前をつけられないものを、お互い胸の奥に抱えたまま。
それでも私たちは、同じ屋敷で、同じ季節の音を聴いていた。
千景に言われたから、というだけではない。
ほんとうは、音を聴きたかった。
廊下の向こうから三味線が鳴ると、自然と足が止まる。
千景の声が聞こえると、その高さも、響きも、間も、頭の中にそっと写し取った。
音を追っているあいだだけは、息がしやすかった。
聴き馴染んだ三味線の音と、千景の声。
その重なりが、不思議なくらい心を落ち着かせてくれる。
屋敷の中で削れていくものが、そこだけは静かにもとの形へ戻っていく気がした。
「聴いていたか」
「はい」
「どうだった」
少し考えてから答える。
「今日の声は、昨日より前へ走ってしまっていました。昨日の方が、深かった気ぃします」
「昨日の方がいい、ということは今日は浅い?」
「浅い、というより、広がる方向が違うんやと思います。昨日は下へ深う沈んで、今日は横へ広がっていく感じで。どっちがええ悪いではない思うんですけど、今の役には昨日の方が合う気ぃします」
「……なるほど」
千景は少し考えてから、静かに頷いた。
「わかった。今日は気が散っていた」
「何か、ありましたか」
「弥生のことが少し気になっていた。体の具合……いや、違うな……」
「え」
「どこかで、弥生が聴いてくれているのかが、気になった」
何も言えなかった。
それは、まるで私に聴いてもらうのを望んでいると言われているようで。
「だから声が散った。乗るべき間に、うまく乗り切れなかった」
「……兄さん」
「なんだ」
「うちのことは、気にせんといてください」
「気にしないことはできない」
きっぱり言い切って、千景は屋敷の奥へ歩いていく背中を見送る。
私のことが気になって、声が散った。
その意味が、自分の思った通りのものかどうかはわからない。
わからないのに、胸の中では、嬉しさと申し訳なさが一緒くたになって静かに波立っていた。
学校はなくなった。
けれど、稽古の声は残っていた。
千景が声をかけてくれることも、廊下から音を聴く時間も残っていた。
それが今の私の場所だった。
『はい』しか言えない日もある。
仕事に追われて、ほんとうに声が死にそうになる日もある。
それでも、千景の稽古の音を聴くたびに、自分の中の言葉が少しずつ戻ってくるようで。
耳の奥でほどけて、胸の中で息をし直すみたいに。
お互い、相手を責めなかった。
お互い、自分の方が悪かったのだと思いながら、それでも離れずにいた。
近づき方はひどくゆっくりだった。
でも確かに、昨日より今日、今日より明日と、少しずつ距離は縮まっていった。
急に何かが変わるのではなく、気づけば前より近くに立っている、そんな縮まり方。
まだ名前をつけられないものを、お互い胸の奥に抱えたまま。
それでも私たちは、同じ屋敷で、同じ季節の音を聴いていた。



