梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

学校を休み始めてから、屋敷の仕事はさらに増えた。
家にいる時間が増えたのだから、その分働きなさい。
それが鴇子の理屈なのだろう。

午前から午後まで、ほとんど休まず動く。
体は前よりましになったとはいえ、まだ本調子にはほど遠い。
少し立ち止まるだけで足が重くなり、息も上がる。
それでも休めば、また何か言われる。
だから私は黙って動いた。

ある日、稽古から戻った千景が、廊下で私を呼び止めた。

「学校を休んでいるあいだ、何か勉強したいものはあるか」
「……え」
「学校の代わりになる何かだ。文学でも、音楽でも、何でも構わない」
「おおきに。兄さんにそこまでしていただかんでも」
「俺がしたいんだ」

あまりにまっすぐで、すぐに言葉を返せない。
千景はそのまま、少しだけ声を落として続ける。

「俺のせいで、弥生から学校を奪った。何か代わりにできることがあるなら、したい」
「兄さんは悪うない、言いました」
「でも、俺は悪いと思っている」

真剣な目だった。
慰めではない。気休めでもない。本気でそう思っている人の目。
しばらく考えてから、私は小さく答えた。

「……音を聴くんが、好きです」

千景は少しも迷わなかった。

「なら、稽古を聴きに来るといい」
「……鴇子様が」
「気にしなくていい」
「兄さん」
「弥生。学校がなくなったぶん、どこかに場所を作らないと、お前はまた消えていく」

消えていく。
その言葉だけが、胸の奥に鋭く刺さった。
まるで、私が口にできずにいたことを、そのまま言い当てられたみたいで。

「消えていく、いうのは……」
「『はい』しか言わなくなっているのを、俺が気づかないとでも思うか」
「……」
「学校がなくなれば、お前の世界は屋敷の中だけになる。屋敷の中だけでは、お前の言葉が死んでいく」

千景の声は、いつもより強かった。
稽古のときに張る声とも違う。
押し殺していたものが、そのまま滲んでいるような強さだった。

「俺は、お前の言葉が死ぬのを見たくない。だから稽古を聴きに来い。廊下からでもいい。遠くからでもいい」
「……でも」
「弥生。今だけは『はい』と言え」
「…………はい」

そこでようやく、千景は少しだけ目を細めた。
厳しく言ったくせに、その目はどこか安堵しているようにも見えた。

「それに、覚えてもらえたら助かる。これから先、劇場に手伝いに来てもらうことも増えるだろう」