屋敷に帰ったのは、夕方を少し過ぎたころだった。
玄関には鴇子が立っていた。
外出着のまま、まっすぐこちらを見ている。
その目がまず千景に向けられた瞬間、空気が冷えた気がした。
「千景さん、お稽古は」
「今日はこちらが先でした」
「そういう問題ではないでしょう」
怒鳴るわけではないのに、言葉の端がきりきりと張りつめている。
私は千景から数歩だけ離れたところで、そのやり取りを聞いていた。
足元の畳にだけ視線を落とし、息を潜める。
「師匠のところへ連絡は」
「しました」
「なんとおっしゃっていたの」
「……明日、しっかりやれと」
「そう」
短い沈黙のあと、鴇子の視線が私に移った。
「弥生さん、少し休みなさい。あとで話があります」
「……はい」
私は頭を下げ、自分の部屋へ少し急いで戻った。
襖を閉めてから、ようやくひとつ息を吐く。
どれだけ吐いても、胸のあたりの強張りは少しもほどけなかった。
普段着の袴に着替え、髪を整え、呼ばれるのを待つ。
ほどなくして使いが来て、鴇子の部屋へ向かった。
部屋に入ると、鴇子は何か書き物をしながら待っていた。
鉛筆の先だけが淡々と動いている。
顔を上げないまま、言う。
「座りなさい」
向かいに座ると、ようやく視線が上がった。
「今日、千景さんが稽古を休んだことは、わかっているわね」
「……はい。申し訳ありません」
「申し訳ないだけでは済まない話よ。今、千景さんにとって、どれほど大切な時期か、わかっているの」
「……はい」
「師匠が今日のことをどう思ったか。次の公演の話に影響が出ないとも限らない。あなたのせいで、千景さんに差し障りが出たの。それを、わかっている?」
「……はい」
「これ以上、あの子の足を引っ張るつもり?」
何も言えなかった。
一日の稽古が遅れる。
たったそれだけでも、取り戻すのに何日もかかることがある。
一日が三日になり、五日になり、舞台の出来を左右することだってある。
それくらいのことは、私にももうわかっていた。
「倒れるほど体が弱いなら、学校など通っている場合ではないわね」
「……はい」
その言葉は、静かに落ちてきた。
静かなのに、重く、心を抉られるようで、また、『はい』しか出なかった。
「来週から、学校は休みなさい。しばらく養生して、体を戻すことを考えなさい。わかった?」
「っ……はい」
「下がりなさい」
頭を下げ、部屋を出た。
廊下に出たあとも、そのまましばらく動けない。
冷やりとした空気の中、目の前の板の目を、ただ見つめる。
学校を休む。
それは言葉どおりの意味ではない。
『行かない』ではなく『行くな』ということ。
鴇子は『しばらく』と言った。
けれど、そのしばらくが、そのままずっと続くのだろうと、嫌なくらいわかってしまった。
私のせいで、千景が稽古を休ませてしまったから。
私が倒れて、千景が学校まで来てくれて、師匠への連絡が遅れて、稽古に差し障りが出た。
言い訳もできないくらい、全部、私のせいだった。
鴇子の言葉は、きっと正しい。
私は壁に手をついて、少しのあいだ目を閉じた。
頭の奥がじんと重い。
学校に、行かなくなる。
学校は、唯一屋敷の外で過ごせる時間。
友達は一人もいなかったけれど、それでも外の空気を吸える場所だった。
屋敷の仕事と、鴇子の言葉だけではない世界が、確かにあるのだと感じられる場所だった。
それがなくなる。
でも、私には何も言えなかった。
千景の稽古を邪魔して、御曹司として大事な時期に、足を引っ張った。
その事実がある限り、東城院以外行く当てのない私に、何かを言う資格はない。
部屋に戻って、畳の上に寝転がり、天井をぼうっと見つめる。
悲しい気持ちも、やるせない気持ちも、もちろんある。
でも、それより先に浮かんだのは、千景のことだけ。
千景が稽古を抜けて、学校まで来てくれた。
稽古着のまま、保健室へ来てくれた。
私の手を握って、額に触れてくれた。
ただ兄として、妹を心配しただけなのかもしれない。
それでも、私には十分すぎた。
千景の目が、手首を包んだ時の手の強さが。
額に触れた指先の熱が。
あれが全部、ただの心配と同じものだったとは、どうしても思えなかった。
考えてはいけないと思った。
思ったのに、考えずにはいられない。
学校がなくなる。
それはきっと、私にとって大きなことだったはずなのに。
それより先に、千景が来てくれたことの方が胸の奥に残っていた。
どうしようもなく、ただひどく嬉しかった。
そのことに気づいてしまって、私はそばにある座布団を掴むと、顔を埋めた。
玄関には鴇子が立っていた。
外出着のまま、まっすぐこちらを見ている。
その目がまず千景に向けられた瞬間、空気が冷えた気がした。
「千景さん、お稽古は」
「今日はこちらが先でした」
「そういう問題ではないでしょう」
怒鳴るわけではないのに、言葉の端がきりきりと張りつめている。
私は千景から数歩だけ離れたところで、そのやり取りを聞いていた。
足元の畳にだけ視線を落とし、息を潜める。
「師匠のところへ連絡は」
「しました」
「なんとおっしゃっていたの」
「……明日、しっかりやれと」
「そう」
短い沈黙のあと、鴇子の視線が私に移った。
「弥生さん、少し休みなさい。あとで話があります」
「……はい」
私は頭を下げ、自分の部屋へ少し急いで戻った。
襖を閉めてから、ようやくひとつ息を吐く。
どれだけ吐いても、胸のあたりの強張りは少しもほどけなかった。
普段着の袴に着替え、髪を整え、呼ばれるのを待つ。
ほどなくして使いが来て、鴇子の部屋へ向かった。
部屋に入ると、鴇子は何か書き物をしながら待っていた。
鉛筆の先だけが淡々と動いている。
顔を上げないまま、言う。
「座りなさい」
向かいに座ると、ようやく視線が上がった。
「今日、千景さんが稽古を休んだことは、わかっているわね」
「……はい。申し訳ありません」
「申し訳ないだけでは済まない話よ。今、千景さんにとって、どれほど大切な時期か、わかっているの」
「……はい」
「師匠が今日のことをどう思ったか。次の公演の話に影響が出ないとも限らない。あなたのせいで、千景さんに差し障りが出たの。それを、わかっている?」
「……はい」
「これ以上、あの子の足を引っ張るつもり?」
何も言えなかった。
一日の稽古が遅れる。
たったそれだけでも、取り戻すのに何日もかかることがある。
一日が三日になり、五日になり、舞台の出来を左右することだってある。
それくらいのことは、私にももうわかっていた。
「倒れるほど体が弱いなら、学校など通っている場合ではないわね」
「……はい」
その言葉は、静かに落ちてきた。
静かなのに、重く、心を抉られるようで、また、『はい』しか出なかった。
「来週から、学校は休みなさい。しばらく養生して、体を戻すことを考えなさい。わかった?」
「っ……はい」
「下がりなさい」
頭を下げ、部屋を出た。
廊下に出たあとも、そのまましばらく動けない。
冷やりとした空気の中、目の前の板の目を、ただ見つめる。
学校を休む。
それは言葉どおりの意味ではない。
『行かない』ではなく『行くな』ということ。
鴇子は『しばらく』と言った。
けれど、そのしばらくが、そのままずっと続くのだろうと、嫌なくらいわかってしまった。
私のせいで、千景が稽古を休ませてしまったから。
私が倒れて、千景が学校まで来てくれて、師匠への連絡が遅れて、稽古に差し障りが出た。
言い訳もできないくらい、全部、私のせいだった。
鴇子の言葉は、きっと正しい。
私は壁に手をついて、少しのあいだ目を閉じた。
頭の奥がじんと重い。
学校に、行かなくなる。
学校は、唯一屋敷の外で過ごせる時間。
友達は一人もいなかったけれど、それでも外の空気を吸える場所だった。
屋敷の仕事と、鴇子の言葉だけではない世界が、確かにあるのだと感じられる場所だった。
それがなくなる。
でも、私には何も言えなかった。
千景の稽古を邪魔して、御曹司として大事な時期に、足を引っ張った。
その事実がある限り、東城院以外行く当てのない私に、何かを言う資格はない。
部屋に戻って、畳の上に寝転がり、天井をぼうっと見つめる。
悲しい気持ちも、やるせない気持ちも、もちろんある。
でも、それより先に浮かんだのは、千景のことだけ。
千景が稽古を抜けて、学校まで来てくれた。
稽古着のまま、保健室へ来てくれた。
私の手を握って、額に触れてくれた。
ただ兄として、妹を心配しただけなのかもしれない。
それでも、私には十分すぎた。
千景の目が、手首を包んだ時の手の強さが。
額に触れた指先の熱が。
あれが全部、ただの心配と同じものだったとは、どうしても思えなかった。
考えてはいけないと思った。
思ったのに、考えずにはいられない。
学校がなくなる。
それはきっと、私にとって大きなことだったはずなのに。
それより先に、千景が来てくれたことの方が胸の奥に残っていた。
どうしようもなく、ただひどく嬉しかった。
そのことに気づいてしまって、私はそばにある座布団を掴むと、顔を埋めた。



