目が覚めた時、白い天井があった。
しばらく、ここがどこかわからなかった。
学校の保健室だ、と気づいたのは、鼻の奥に残る消毒薬みたいな匂いのせいだった。
体が重い。
腕を動かそうとしても、思うように持ち上がらない。
ぼんやりした頭で少しずつ直前のことを思い出して、授業中に倒れたのだと気づいた途端、胸の奥がざわついた。
迷惑をかけた。
みんなに見られた。
先生にも、きっと手間をかけさせた。
そんなことばかりが、鈍い頭の中をぐるぐる回る。
その向こうで、ようやく自分の手が誰かに握られていることに気がついた。
「……兄さん?」
「気がついたか」
千景の顔が、すぐそばにあった。
いつもより少し張りつめていて、目だけが妙に鋭い。
「……お稽古は」
「そんなこと気にするな」
「そないなこと……」
「後でいい」
後でいい、と千景は言った。
けれど、その顔は少しも後でいいとは言っていなかった。
何か、言葉にするより大きなものが、そのまま表に出ているような顔だった。
千景は私の顔を見たあと、握ったままの手に目を落とした。
掌をなぞるように指先が移動して、手首のところで止まる。
骨の浮いたあたりに、そっと触れる。
「……細いな」
「……そないなこと、あらしまへん」
「いや、細い」
「……前から、こんくらいです」
千景は手首を包むように持ったまま、しばらく黙っていた。
次に、もう片方の手が額に触れる。
「熱もある」
「少しだけです」
「少しではない」
きっぱり言われて、私は目を伏せた。
千景の手が額から離れたあとも、そこだけ熱の名残みたいなものが残っている気がした。
「水を持ってくる」
千景は立ち上がり、保健室の隅の水道でコップに水を汲んできた。
起き上がろうとした私の背中に手を当てて、ゆっくり支えてくれる。
その手つきが思ったよりずっと慎重で、胸の奥がかすかに揺れた。
水を一口飲むと、冷たいものが喉を通って、胸の奥へ落ちていく。
それだけで、少しだけ生き返るような気がした。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
千景はそう言って、また椅子に座ったまま私を見ていた。
その目は、もうしばらくここを動かないつもりだと、何も言わなくてもわかる目だった。
「兄さん、もう帰ってください。お稽古が」
「帰らない」
「師匠に怒られます」
「怒られても構わない」
「兄さん」
「弥生」
千景が、私の名前を呼ぶ。
その声には、もうそれ以上言うな、という響きがあって、私は口をつぐんだ。
「お前を一人にして帰ることは、できない」
「……どうして」
静かに聞いたつもりだった。
でも、自分でも驚くほど、逃がさない声になっていた。
千景はすぐには答えなかった。
少しだけ目を伏せ、それから低く言う。
「それは……今は、うまく言えない」
千景が、うまく言えないと言った。
そんなことを口にするのを、私は初めて聞いた気がした。
千景の顔を見る。
長い睫毛を伏せ気味に、千景は私ではなく、床のあたりを見ていた。
その横顔には、まだ言葉になりきらないものが滲んでいた。
「もう少ししたら、車を呼ぼう」
「……ありがとうございます」
それ以上何か言えば、今ここにあるものまで形を変えてしまいそうで、言えなかった。
しばらく、ここがどこかわからなかった。
学校の保健室だ、と気づいたのは、鼻の奥に残る消毒薬みたいな匂いのせいだった。
体が重い。
腕を動かそうとしても、思うように持ち上がらない。
ぼんやりした頭で少しずつ直前のことを思い出して、授業中に倒れたのだと気づいた途端、胸の奥がざわついた。
迷惑をかけた。
みんなに見られた。
先生にも、きっと手間をかけさせた。
そんなことばかりが、鈍い頭の中をぐるぐる回る。
その向こうで、ようやく自分の手が誰かに握られていることに気がついた。
「……兄さん?」
「気がついたか」
千景の顔が、すぐそばにあった。
いつもより少し張りつめていて、目だけが妙に鋭い。
「……お稽古は」
「そんなこと気にするな」
「そないなこと……」
「後でいい」
後でいい、と千景は言った。
けれど、その顔は少しも後でいいとは言っていなかった。
何か、言葉にするより大きなものが、そのまま表に出ているような顔だった。
千景は私の顔を見たあと、握ったままの手に目を落とした。
掌をなぞるように指先が移動して、手首のところで止まる。
骨の浮いたあたりに、そっと触れる。
「……細いな」
「……そないなこと、あらしまへん」
「いや、細い」
「……前から、こんくらいです」
千景は手首を包むように持ったまま、しばらく黙っていた。
次に、もう片方の手が額に触れる。
「熱もある」
「少しだけです」
「少しではない」
きっぱり言われて、私は目を伏せた。
千景の手が額から離れたあとも、そこだけ熱の名残みたいなものが残っている気がした。
「水を持ってくる」
千景は立ち上がり、保健室の隅の水道でコップに水を汲んできた。
起き上がろうとした私の背中に手を当てて、ゆっくり支えてくれる。
その手つきが思ったよりずっと慎重で、胸の奥がかすかに揺れた。
水を一口飲むと、冷たいものが喉を通って、胸の奥へ落ちていく。
それだけで、少しだけ生き返るような気がした。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
千景はそう言って、また椅子に座ったまま私を見ていた。
その目は、もうしばらくここを動かないつもりだと、何も言わなくてもわかる目だった。
「兄さん、もう帰ってください。お稽古が」
「帰らない」
「師匠に怒られます」
「怒られても構わない」
「兄さん」
「弥生」
千景が、私の名前を呼ぶ。
その声には、もうそれ以上言うな、という響きがあって、私は口をつぐんだ。
「お前を一人にして帰ることは、できない」
「……どうして」
静かに聞いたつもりだった。
でも、自分でも驚くほど、逃がさない声になっていた。
千景はすぐには答えなかった。
少しだけ目を伏せ、それから低く言う。
「それは……今は、うまく言えない」
千景が、うまく言えないと言った。
そんなことを口にするのを、私は初めて聞いた気がした。
千景の顔を見る。
長い睫毛を伏せ気味に、千景は私ではなく、床のあたりを見ていた。
その横顔には、まだ言葉になりきらないものが滲んでいた。
「もう少ししたら、車を呼ぼう」
「……ありがとうございます」
それ以上何か言えば、今ここにあるものまで形を変えてしまいそうで、言えなかった。



