梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

その日の稽古の直前。
師匠が来る三十分前。稽古着に着替え、稽古場へ向かう途中のこと。
電話を受けた使用人の声が変わったのを、今でも覚えている。

「弥生さんが、ですか!?」

受話器の向こうで、弥生が倒れた。
その言葉を聞いた瞬間、体が先に動いていた。

気がつけば、稽古着のまま外へ出ていた。
師匠への言伝を誰かに頼んだのかどうか、あとから思い出せなかった。
たぶん頼んだ。たぶん。
でも、そんなことはどうでもよかった。

頭の中は、学校で倒れたらしい弥生のことでいっぱいだった。
倒れた。
授業中に。
その言葉だけが、何度も何度も頭の中で反響する。

弥生の顔が浮かんだ。

最近、顔色がよくないことは知っていた。
食卓で箸の進みが遅いことも、食べる量が減っていることも気になっていた。
夜遅くまで仕事をしていることも、廊下の明かりで知っていた。

それを見て、声をかけてきたつもりだった。
気にしているつもりだった。
けれど、まるで足りていなかった。

なぜそれだけで、事足りると思ってしまったのか。
声をかけるだけでは、何の意味もないだろうことはわかっていたはずなのに。

学校に着くと、昇降口のあたりで女学生たちがざわめいた。
稽古着のまま駆け込んできた男なんて、目立たないはずがない。
けれど、視線なんてどうでもよく、気にも留めないまま校舎の中に向かう。

「東城院千景といいます。倒れた生徒を迎えに来た」

教師らしい女性が慌てて出てきて、「こちらへ」と案内される。

「東城院のご子息よ」
「まあ……あの方が御曹司の?」
「弥生さんを迎えに?」

廊下を歩くあいだ、すれ違う女学生たちがひそひそと声を上げた。
俺を見る目も、弥生の名を口にする声も、耳には入る。
入るのに、意味としては頭に届かなかった。

「すまない。通してくれ」

道を塞がれそうになる度、それだけ言って、前へ進む。
案内された部屋の前まで来た時、一度だけ呼吸を整えた。
そうでもしないと、その勢いのまま、扉を引き開けてしまいそうだった。

保健室に入り、白いカーテンを開けた瞬間、弥生の顔が目に入る。
これほど白かっただろうか……
想像していたより、ずっと白かった。
照明のせいだと思いたいくらいの白さだった。

その瞬間、胸の奥で何かが止まったような気がした。

今までだって、何度か弥生の顔色が悪いのは見てきた。
廊下で見かけて、心配もしてきた。
でも今日は違った。
違う、という感覚が、理屈より先に身体を走る。

シーツの上に出ている、弥生の手が見えた。

今まで見ていたはずなのに、今日初めて見たような細さだった。
骨ばっていて、白くて、頼りない。
こんなに細い手で、毎日あれだけの仕事を、平気な顔をしてこなしていたのかと思うと、息が詰まる。

そばへ行き、椅子を引く。
そのまま手を取ると、細いながらも、ちゃんと温もりがあった。
それだけで、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。

冷たくなっていなくてよかった。
まだここにいる。
そんな当たり前のことに、ひどく安堵した。

「目を覚ますまで、いらっしゃいますか?」
「はい……このまま」

弥生を一人にして帰れなかった。

いや、違う。
帰れない理由が、兄として心配しているから、というだけではないことに、この時はっきり気づいた。

心配している。
その気持ちに間違いない。
けれど、その心配の仕方が、兄が妹に向けるものとは、どこか形が違う。

手首を包んだ時の細さが、額に触れた熱が、まだ指先から消えない。
こんなになるまで気づけなかった自分が、腹立たしい。
この細さも、この熱も、もっと早く知るべきだった。

なぜ、もっと早く気づかなかったのか。
なぜ、こんなにも取り乱しているのか。
その問いの裏にあるものを、この時初めて、まともに見ようとした。

弥生が心配だ。
でも、それだけではない。

弥生が苦しんでいることが、他の誰かが苦しんでいる時とは、まるで違う重さで俺の中に落ちてくる。
胸の奥に、まっすぐ沈んで、鈍く痛む。

薫子が熱を出した時のことを思い浮かべた。
もちろん心配した。
けれど、今ほど息が詰まることはなかった。

今は、弥生が白い顔でシーツに横たわっている。
それだけで、胸が締めつけられる。

弥生だから心配だということに、ようやく気が付く。

答えは、考えるより先に出ていた。
出ていたのに、まだ名前をつけることにだけ、少し時間がかかった。