引き取られて、四年が経った。
梅の花が咲いた。
屋敷の庭の梅は白くて、冷たい空気の中でひっそり匂っていた。
私はその花を、仕事の合間に立ち止まって見た。
京都の梅も、白かった。
祇園の置屋の小さな庭にも梅の木が一本あって、毎年この時期になると、静かに花をつけた。
あの頃の私には、春が来るのが嬉しかった。
何かがほどけるようで、少しだけ先が明るくなる気がしたから。
今の私には、春が来ても特に何も変わらない。
仕事は続く。
『はい』しか言わない日々も続く。
それでも梅は咲く。白くて、静かで、冷たい空気の中でほのかに匂っていた。
少しずつ、自分の限界がきていることを感じていた。
体が重い。
頭が、いつもどこかぼんやりする。
朝、起きるだけでひどく疲れる日が増えた。
立ち上がると、視界が霞み、足の裏がふわつくこともあった。
千景は相変わらず忙しかったけれど、廊下で会うと、心配そうな目で私を見た。
「顔色が悪い。大丈夫か?」
「はい」
「……大丈夫かと聞いている」
「はい……」
大丈夫ではないことくらい、もう自分でもわかっていた。
でも、大丈夫ではない、という言葉が見つからなかった。
どこから言えばいいのかも、誰に言えばいいのかもわからない。
苦しい、つらい、しんどい。そんな言葉は頭に浮かぶのに、口のところまで来ると、全部ほどけてしまう。
結局、私に言えるのは『はい』だけだった。
その言葉だけが、訛ることなく、澱まずにいえる言葉。
それが、私に許された、たったひとつの嘘みたいに。
仕事が終わって、部屋に戻る前の短い時間。
星が出ていて、空気はもう鋭く冷えていた。
遠くから、三味線の音が稽古場の方から聞こえた。
こんな夜遅くに、まだ千景が稽古をしているのだろうか。
その場に立ったまま、耳を澄ませた。
静かな、細い音。
昼間の稽古の音のような力強さとは違う。
何かを探しているような、問いかけているような、夜の音。
目を閉じて、その音を頭の中に、刻むように溜め込む。
千景の音が、少しずつ体の中に入ってくる気がした。
毎晩聞こえる稽古の音。
誰にも見せない顔で、板の上に立つために、夜まで削っているのかもしれない。
そう思うと、胸の奥がきゅっとした。
三味線の音が止むと、夜の空気の中に、静けさが戻った。
私は窓を少し開けて、しばらく星を見上げる。
千景のことを考えると、胸が痛い。
その痛みが何なのか、まだわからない。
でも、わかりたいとも思わなかった。
わかってしまったら、もっとつらくなる気がしたから。
授業中のこと。
気候としては、春も近付いてきて、いちばん過ごしやすい時期のはずなのに。
私の体の中にはずっと前から冬が終わることはなかった。
黒板の字が、ぼやけて見えた。
最初は、まばたきをすれば直ると思ったのに。
でも、まばたきをしても直らない。
ぼやけたまま、視界は少しずつ白くなり、遠のいていく。
立ち上がろうと体に力を入れた、その瞬間だった。
机の角が頬に当たる感触だけが、妙にはっきりした。
それで、全部わからなくなった。
梅の花が咲いた。
屋敷の庭の梅は白くて、冷たい空気の中でひっそり匂っていた。
私はその花を、仕事の合間に立ち止まって見た。
京都の梅も、白かった。
祇園の置屋の小さな庭にも梅の木が一本あって、毎年この時期になると、静かに花をつけた。
あの頃の私には、春が来るのが嬉しかった。
何かがほどけるようで、少しだけ先が明るくなる気がしたから。
今の私には、春が来ても特に何も変わらない。
仕事は続く。
『はい』しか言わない日々も続く。
それでも梅は咲く。白くて、静かで、冷たい空気の中でほのかに匂っていた。
少しずつ、自分の限界がきていることを感じていた。
体が重い。
頭が、いつもどこかぼんやりする。
朝、起きるだけでひどく疲れる日が増えた。
立ち上がると、視界が霞み、足の裏がふわつくこともあった。
千景は相変わらず忙しかったけれど、廊下で会うと、心配そうな目で私を見た。
「顔色が悪い。大丈夫か?」
「はい」
「……大丈夫かと聞いている」
「はい……」
大丈夫ではないことくらい、もう自分でもわかっていた。
でも、大丈夫ではない、という言葉が見つからなかった。
どこから言えばいいのかも、誰に言えばいいのかもわからない。
苦しい、つらい、しんどい。そんな言葉は頭に浮かぶのに、口のところまで来ると、全部ほどけてしまう。
結局、私に言えるのは『はい』だけだった。
その言葉だけが、訛ることなく、澱まずにいえる言葉。
それが、私に許された、たったひとつの嘘みたいに。
仕事が終わって、部屋に戻る前の短い時間。
星が出ていて、空気はもう鋭く冷えていた。
遠くから、三味線の音が稽古場の方から聞こえた。
こんな夜遅くに、まだ千景が稽古をしているのだろうか。
その場に立ったまま、耳を澄ませた。
静かな、細い音。
昼間の稽古の音のような力強さとは違う。
何かを探しているような、問いかけているような、夜の音。
目を閉じて、その音を頭の中に、刻むように溜め込む。
千景の音が、少しずつ体の中に入ってくる気がした。
毎晩聞こえる稽古の音。
誰にも見せない顔で、板の上に立つために、夜まで削っているのかもしれない。
そう思うと、胸の奥がきゅっとした。
三味線の音が止むと、夜の空気の中に、静けさが戻った。
私は窓を少し開けて、しばらく星を見上げる。
千景のことを考えると、胸が痛い。
その痛みが何なのか、まだわからない。
でも、わかりたいとも思わなかった。
わかってしまったら、もっとつらくなる気がしたから。
授業中のこと。
気候としては、春も近付いてきて、いちばん過ごしやすい時期のはずなのに。
私の体の中にはずっと前から冬が終わることはなかった。
黒板の字が、ぼやけて見えた。
最初は、まばたきをすれば直ると思ったのに。
でも、まばたきをしても直らない。
ぼやけたまま、視界は少しずつ白くなり、遠のいていく。
立ち上がろうと体に力を入れた、その瞬間だった。
机の角が頬に当たる感触だけが、妙にはっきりした。
それで、全部わからなくなった。



