梨園の花嫁〜歌舞伎の御曹司は、芸妓の娘の義妹を手放せない〜

その日の夜、千景が私の部屋の障子を開けた。
稽古以外で、千景が私の部屋に来たのは、ここへ来た最初の日以来。

「少し話してもいいか」
「はい」

千景は静かに入ってきて、畳に膝をついた。
袴の裾を整え、向かいに座る。

行燈の灯りは弱く、部屋の隅に揺らめきながら、やわらかな影を落とす。
昼の稽古場とはまるで違う静けさのなかで、千景がここにいることだけが、妙に現実味を持たない。

「今日、初めてわかった気がする。女方というものが」
「……うちの言うたこと、お役に立てましたか」
「そうだな。初めて、方向が見えた気がする」

千景は静かに言った。
けれど、その声の奥には、昼間の稽古の熱がまだ残っているようだった。

「師匠から何年もかけて教わってきた。でも今日、お前の言葉で初めて、歌舞伎のなんたるかがわかった」
「大袈裟です」
「大袈裟ではない」

きっぱり言ってから、千景はまっすぐ私を見る。

「お前は、耳だけじゃない。目もいい。それに、余計な先入観がない」
「……」
「型通りのことを言わないから、かえって本質が見えるのかもしれない」

そんなふうに言われて、すぐには返事ができない。
誰かに何かを認められること自体、もうずいぶん久しぶりのことで。

「……母の芸事を、そばで見ていただけです」
「それは、お前の財産だ」

財産。
その言葉を、私は頭の中で何度も繰り返す。
誰かに、私が持っているものを財産だと言ってもらったのは初めてのこと。
この屋敷に来てから、私の持つものは大抵、余計なものか、隠した方がいいものとして扱われてきたから。

「……おおきに」
「こちらこそ」

千景は短く頭を下げた。
それがまた、千景らしいと思う。
丁寧なのに、必要以上に仰々しくない。
言葉だけではなく、礼の仕方までまっすぐで。

「これからも、時折で構わない、稽古を見てもらいたい」
「……はい」
「助かる。ゆっくり休むといい。いつも遅くまで仕事をしていただろう」
「どうして知ってはるんですか」
「廊下を通ったとき、部屋に明かりがついているのが見えた」

見られていたのだと思うと、少しだけ驚いた。
この屋敷で、私が夜更けまで起きていることに気づく人がいるなんて思っていなかった。

「おやすみ。……弥生」

千景は立ち上がり、その一言だけ残して、部屋を出ていった。
私は一人になって、消えかけた行燈の灯りを見つめる。
胸のどこかが、じんと熱かった。

初めて、下の名で呼ばれた。

それだけのことなのに、嬉しいと思ってしまった。
ここに来てから数年。
この屋敷の中で、ほんの少しだけ、居場所のある場所ができたように思えた。